それは、夏も近付いたある日のことだった。
その日、私は昼過ぎにやっと起き出した。
昨日のコンパでしこたま飲んだせいで、頭が割れるように痛かった。
「・・・あー・・・」
溜め息のような、あくびのような、なんだか分からないことをしながら手近にあった鏡を覗き込むと、疲れた顔が見えた。
「・・うわ・・最悪・・・」
おもわず自分で呟いてしまう。
目の下にはうっすらとクマができ、血色は悪く、おまけに頬には数個の吹き出物ができていた。
ここ数年間稀にみる最低ランクの状態だ。
私は今度こそ正真正銘溜め息をついた。
もう若くないなあ。
・・・・いやだ、これじゃほんとにおばさんになっちゃう。
でも頭、いたい・・・。
そのままぱたりとベッドにつっぷしてもう一度眠ってしまおうかと思った。
それもいいかもしれない。
どうせもう昼過ぎなのだ。
今日一日何もしないで、ごろごろとしているのもいいかもしれない。
(・・・約束なかったよね・・・)
うとうとしながら思い起こしてみたが何もない。
それなら、と私は改めて眠ろうと思って、なにげなくごろんと寝返りをうった。
すると生温かい何かが私の顔にあたるのだ。
むにゅ。
(?)
私はぼやけた思考のまま、とろとろと目を開けた。
そしてそのまま固まった。
目の前、10cmのところに顔があった。
きりっとした濃いめの眉、堀の深い鼻脈、きれいな二重のまぶた。
全体的に細いがしっかりした身体の線、私がすっぽり入りそうな肩幅に伸びきった手足。
年は、私と同じくらいか。
おお?いい男。
美男とはいいきれないが、完璧に好みのタイプの男だった。
その非常識な状態を忘れ、しばし私はその男にみとれていた。
それから。
そう、本当にいいかげんなことに、その後に。
私は、ここが私の家で、しかも私は素肌にシャツを着ただけの状態だということに気がついた。
「なっ、なっ、なん、なんなのよっあんたは─────っっ!?」
そして、マンション中に響き渡るような声で、とりあえず、
叫んだ。

24歳、職業 OL。
小さいが小きれいで交通面や物資面で便利な場所にあるマンションに独り暮らし。
仕事ぶりは真面目で確実と評判で、社内でのスキャンダルも無いに等しい。
堅物?モラリスト?いいえ、ほんの少し真面目なだけ。
だが、まるでもてない訳でもない、と思っている。
そんな平凡な普通のOL。
その私の前に、見知らぬ男が目を丸くして座っている。
さっきの私の声でびっくりして飛び起き、そして、どうして怒られているのか分からないようだった。
けれど、なにがなんだか分からないのは私の方だ。
なぜ好みとはいえ見知らぬ男と自分のベッドで寝ているのか。
なぜ服を着ていないのか。
とりあえず、離れたい。
ていうか、逃げたい。
シーツはボックス式なので、剥ぎ取れなかった。
だから、とっさに掛け布団で、自分の身体を隠し、それをぼてぼて引きずって後ずさるが、部屋は狭い。
すぐに壁際に追い詰められる。
私には裸で寝る習慣は、ない。
布団を取られ、男は全裸。
まぬけな格好。
でも、そんなのもどーでもいい。
「あ、あの・・・」
その男がおずおずと問い掛けた。
「なによっ」
めいいっぱい取れるだけの間隔をとって、壁に張りついている私は、反射的に噛みつくような口調になってしまう。
その言い方に男は黙って首をすくめた。
そしてゆっくりと聞いた。
「僕が何かした?」
あら、深みのあるいい声。
・・・・違う、そうじゃなくて。
だから、そんなことはどうでもいいから。
何がした?だと?
そんなことは私が聞きたい。
男は溜め息をついて、床にちらばっていた服をすばやく身につけた。
そしてこちらに静かに寄ってきた。
私は固まったまま動けない。
(こ、このやろう。なんかしようとしたら殴って逃げてやるからね)
男はすぐ側まで来ると、手を伸ばした。
びくっとして身をすくめると、その手は一瞬止まってから、甲で私の頬に触れた。
私の顔を全部覆えそうな大きな手だった。
でも、知らない手。
それが、近づく瞬間を私は知らない。
「どうしたの?」
男が私のすぐ耳もとで聞いた。
優しいいたわるような声で、私はなぜか呆ける。
してから、自分自身でその気持ちにあたふたした。
私は殴るタイミングをすっかり外してしまった。
すると無言の私を、男は何を思ったか、ひょいっと、抱き上げる。
私はびっくりして暴れる。
「ちょっ、何するのっ!?お、おろ、下ろしてよっ」
「だーめ」
そう答え、楽しそうに笑って、ベッドまで私を連れていくと、ゆっくりと下ろした。
すこしゆるくなりかけたスプリングがギィと音を立てる。
気障な奴だとか、触るなとか、罵倒の言葉だとか。
そんなのも言えない程、私はただ口を聞けなくされている。
強制ではない、なにかに。
男が私の目をじっと見た。
そしてにっこりと笑った。
「覚えてないふりしてもだめだよ。僕はちゃんと覚えてるんだからね」そういってぱっと一瞬、唇をくっつけた。
(ああ・・・)
私はしっかりと理解する。
やはり、そうなのだ。
自分とこの男はそういう関係になってしまったのだ。
それすら分からない程には、子供ではなかった。
残念ながら。
「・・えっ!?どうした?どっか痛い?」
男がぎょっとしてあわてて聞く。
その声も今は私の耳を素通りするだけである。
「・・・しの・・」
「えっ?」
「私の・・・う、っく」
私は泣き出してしまった。
大好きだった高校生の時の彼にだって、あげなかった私のバージン、こんな全然知りもしないヤツなんかにもっていかれちゃうなんて。
異常と言われようが、24歳のこの年まで守り通してたのに・・・
なんでこんなことになっちゃったのよーっ。
わあん、あんまりだー。
男の方はというと、突然私が泣き出したものだからどうしたものかと思案にくれている。
「バージンって・・本当だったんだ・・」
なんぞと呟きながら、腕の下の泣きじゃくる私を眺めている。
そして他にすることを思いつかなかったらしく、私を恐る恐る抱き締めた。
「・・・あ・・えっと。その・・ごめん・・。冗談だと・・思ってて」
そんなおもしろくもない冗談言うわけない。
笑えない。
「・・ふぇ・・・」
24歳も年とっておきながら、思い出すとさすがに取り乱したかなぁとも思うけど、けど、でも、覚えてもいないなんて。
泣きたくもなるわよ。
もう、ほんと本気泣き。
男の腕の中で泣いていると、男が尋ねた。
「・・・もしかして、本当に覚えて・・・ないわけだね」
後半は観念したような声だった。
私はうなづくこともできずに一層声を上げて泣いた。
その私をなぜながら、男は途方にくれたような表情をしていたように思う。
そりゃあそうだろうとも。
たぶん、コンパで知り会い、酔った勢いで事に及んだ。
事?
うわ、嫌な言い方。
じゃあ、ラブアフェア?
あほくさい。
メイク・ラブとも言うなあ。
・・・・どこが?
どんな格好してやるかくらい、私だって知っている。
私の身体は、今だかつて、あのように曲げられたことなどなかったのに。
そして、今もそのはずだったのに。
しかも、それを覚えていない。
 泣いたっていいじゃないか。
きっと泣く権利くらいは、私にだって、ある。
よっぽど薄情な男じゃないとすれば、どうしていいか分からないに違いない。
男にとってはとんだ、はた迷惑な事態である。
それはそうだ。
そうなのだが、私はそれどころではなかった。
こめかみの痛みに混じって腰の痛みはそれを証明していたし、なによりパニックに陥っていた。
男がなお、おずおずと言った。
「ねぇ・・あのさ。とりあえず・・泣きやんで・・・」
言われて私は涙でぐちゃぐちゃになった顔で男を見る。
男は不安気に覗き込んでくる。
私は急に恥ずかしくなってきた。
私今、たぶんものすごく不細工。
見ず知らずの男の前とはいえ、自分も悪いのにいきなり泣き出したりして。
涙なんだか、鼻水なんだか。
鏡を見なくても、分かる。
すごい顔。
「・・・ごめんなさ・・」
やっと搾り出して謝ると、ほっとしたように、
「いや、こっちこそ・・・なんていうか・・やっぱ、ごめん」
そう言った。
それから、もう一回確認するように聞いた。
「覚えてないんだね・・?」
私は、今度はこくんと少しうなづいた。
すごく情けない。
どうしようもなくなって男から目を反らすと、男は苦笑して、呟く。
「弱ったな・・・」
私も、同じだった。
どうすればいいかわからない。
しかたないから、とりあえず聞いてみた。
「あ、あの・・。
私・・・昨日、どうやって・・・・?」
「ん?うん・・・昨日、バーで君の会社の人たちが飲んでて・・」
「あ、その。カクテル6杯目くらいまでは・・覚えてるんです・・」
我ながら飲みすぎた。
私はあまりお酒に強くない。
「うーん、じゃあ、その時、斜め向かいの席に座ってた奴、覚えてるかな?」
斜め向かい・・・?
誰か・・・えーと。
眼鏡をかけた男の人でけっこう好みの顔してて・・。
「あっ!!」
私は思わず指を指してしまった。
「うん、それ僕です」
男はベッドの脇のサイドテーブルから眼鏡を取って掛けてから、
どう?というふうにしてみせた。
私はその黒縁の眼鏡に見覚えがあった。
「彼女に振られて一人で寂しくやけ酒飲んでた僕を見つけて、君が
”一緒に飲む?”って言ったんだよ。自分も好きな人が結婚しちゃったんだって言って。・・・・思い出した?」
「・・・だめみたい。貴方の顔は思い出したんだけど、話しかけた記憶が、ないの・・」
でも、ずっと私が好きだった人が結婚しちゃったことを知っているということは、嘘は言っていないということだ。
私はなんだか早く思い出してあげたいような気持ちになってしまう。
冗談じゃない。
でも、多分悪いのは(ものすごく認めたくないけど)彼だけじゃない。
男はそのまま私の横にばったりと倒れ込んだ。
「そうかー、忘れちゃったかー。アルコール入ってたからなぁ」
「すいません・・」
つい謝ってしまう。
なんで。
男はその体勢のまま顔だけ横向きにして苦笑してみせた。
「被害者は君でしょ、なに謝ってるの」
そうかもしれないけど。
よく考えると、この場合被害者?ではないような・・・・。
しばらく黙ってから男が言った。
「・・・もう一回君を抱いたら・・・思い出してくれるかな・・」
「えっ・・・?」
さっきの大きな手が伸びてきて私の髪をなぜる。
私は止まったまま、その手を見ていた。
するする。
手は、静かに頭を行き来する。
「・・だめか・・」
男はやがてあきらめたように言った。
私は申しわけなくなって、しゅんとしてしまう。
男の顔があんまり哀しそうだったのだ。
この人、もしかしていい人?
・・・・いや、まずい。
「あ、あの・・」
「・・・いや、気にしなくていいよ・・。
ちょっと、こんなの変かもしれないけど・・好きになっちゃったもんだからどうしようか、困ってるんだ」
そう言って笑うと、立ち上がって、
「服、着なよ」
そのまま後ろを向く。
私はそれが本気かどうかより、そこから始まる関係があることを知っては、いる。
耳年魔?
退屈が私に本を読ませた。
時には映画や、友人の話。
退屈だった自分が憎い。
私は無言のまま服を着た。
「・・・いいわ」
着替え終わってから声をかけると男は振り向いて、また苦笑した。
「なんか・・しょーもないよな」
「え?」
「彼女に振られて、バーでたまたま会った女の子と寝て、それでその子に惚れちゃうなんてさ。
それも自分も酔ってたとはいえ、酔った女の子抱くなんてどうかしてるよな・・・」
私はなんと答えればいいか分からない。
どうしよう、この人がいい人に見えてきた。
やばい。
男は玄関先に置いてあったバッグを持ち上げると、私に言った。
「思い出したら言って、昨日渡した電話番号があるはずだから。
・・・ごめんね」
じゃあね。
そして男がドアに手をかけた時、私は叫んだ。
「あーっっ」
「な、なに!?」
思い出したっ!
私はそれを口に出した。
「思い出したっ!」
「えっ!?それ、ほんと・・」
「うんっ」
男はバッグをほおりだして私を抱き締めた。
私も力一杯抱きつきかえした。
男がうれしそうに笑った。
ああ、なんてシアワセそう。
おもしろい。
この人は今私の言葉で、シアワセを手に入れた。
なんてチープ
そして今度は私の手を引っ張っていった。
私は抵抗しなかった。
男と私は一緒にベッドに倒れ込んだ。
「服、着なよって言っといてなんなんだけど、脱がしていいかな?」
にこにこ笑いながら言って、
それを見て吹き出した私を見て、今度は照れくさそうにした。
気障な台詞だ。
でも、この人、天然でやってる。
「どうぞ」
軽率?
尻軽?
違う、ほんの少し惹かれただけ。
私にそう言わせるくらいには。

昨日、私は男と飲んでいた。
いやなことを全て忘れたくて。
ずっと好きだった高校生の時の彼氏から招待状がきた。
別れてからも、友達として付き合っていたけど、私はそれでもずっと好きだった。
とても、好きだった。
「結婚するんだ」
彼らしい書き方で、私はその紙切れを握り締めて泣き崩れてしまった。その夜あったばかりの男の前で。
確か男は、その招待状をあたしの手から抜き取ってあっという間に燃やしてしまったのだ。
そして、9杯目のカクテルを飲み干した。
気障?でもやっぱりおもしろい。
・・・”そこまで”を、思い出した。

「でも・・・そういえば、思い出したからって、それはそれなんだよな・・」
男が、はたと止まって言った。
「・・・いいんじゃない?」
私は笑った。
男も笑った。
(ごめんね)
ちくり。
罪悪感。
あーあ、屈託ない笑顔。
でもまあ、
そのうち思い出せばそれでいい。
どうやら私もこの男に惚れてしまったようだから。
惚れる?それ、どういう事?
それは恥ずかしいこと?
私は最初からモラリストではない。
自分に対して感じるものに、ほんの少し真面目なだけだ。
「そういえば、名前は?」

後日私は、招待状なしで結婚式に出席した。