自分が遭難している気分になったのはたぶんめぐみのせいだと思う。
霧雨のせいで空気までが蒼く見える。濃い霧の中のマンションの個々の窓からもれている光や街灯の灯りは、途方も無く続いていて嫌になるくらいロマンチックだ。
ロマンチック。
その言葉が、時和は嫌いだ。まったく世の中にはそう評されるものが多すぎる。
たとえばこんな霧雨の中の灰色のような蒼のような夜景。
たとえば、初めてキスした時の、彼女の頬を挟んで震えていた自分の手。
「ロマンチックね」
彼女、めぐみは言った。
ロマンチックでなんかあるもんか。
時和は苦々しい気持ちで思う。手の震えは決して「ロマンチック」などではない。
なんて意気地の無い男なんだ、僕は。
2月の恵比寿は冷えていた。
まるで巨大な冷蔵庫みたいだ、と時和は思った。
ざわざわした空気が、隣駅の渋谷とは違う。
ここは、人が多いのに静かな気がする。
駅前の宝くじ屋前の信号待ちをしている間にその考えを伝えると、めぐみは形のいい唇をゆっくりと持ち上げて微笑んだ。
まただ。
また僕は彼女を幸福にしている。
けれど、それはたぶん憐憫の類に属する、とも思う。
小さな子供を見るような彼女の目。
めぐみの目は大きい。茶色の瞳を縁取る睫は短いが多い。そしていつも潤んでいる。
その視線が時和はとても好きだ。そしてとても悲しい。
時和を小さな子供にしてしまうめぐみの瞳。
「かわいいわ」
そうからかうように囁くめぐみの口元。
その唇を今すぐ塞いでしまいたい。
それは強い衝動になって時和を襲う。だから時和は自分がこの後めぐみに対してどう振舞うかはっきりと分かる。
苦しい。
駅前を抜け、ボウリング場の角を曲がった裏にあるチープなホテルに吸い込まれるまでが果てしなく遠い気がして途方にくれる。
「彼女にしたみたいにして」
めぐみがそう言ったのは今朝のことだ。
「彼女って・・・」
時和はめぐみの真意を量りかねて、受話器を持ったまま瞬きを2回繰り返した。
あなたは彼女じゃないの?と言いかけて時和は口をつぐむ。
彼女は、めぐみは、果たして自分にとって彼女か?
彼女というのがただの呼び名ではなく、自分にとってのポジションを指していることは確かだ。
もし「彼女」だったとして。
僕は彼氏なのか?と時和は自分に問いかける。
まさか。
自分とめぐみが、世間一般に言われる彼氏彼女という関係だとは到底思えなかった。
では一体自分はなにか。
手にした物体がとてつもなく不可解なものに思える。
めぐみの声を耳のすぐそばで流す機械。
銀色の携帯の電池パックの部分が急に熱く感じられた。
ああ、と時和は溜息をつく。
結局僕は、自分が彼女にとってどんな存在かさえ、分かってはいないのだ。
あのときからずっとだ。
ずっと自分はめぐみの手のひらの中にいる。
ゆるめられた、隙間だらけのその手の中に。
「電車で来てね。恋人みたいでしょ」
めぐみは最後にそう付け加えた。
最初に見たときは、なんの感慨もいだかなった。
取り立てて美人だとか、かといってブサイクだとか、そういうこともなかった。
ただ人懐こい笑顔をする人だ、とだけ思った。めぐみは、時和の友人、北村ほのかの姉だった。
貸していた洋画のDVDを返してもらいに行った北村の家で「あ、これうちのおねえちゃん。」と言って紹介されたとき、時和は似てないなあ、と漠然と思った。
肩までたらした髪を軽く耳にかけて、素顔(少なくとも時和にはそう見えた)だった。
北村は(いや、姉のほうも北村なのだが)短くそろえたボブで、今時風にマスカラをたっぷりぬって、いつもグロスでてかてかと光る大きな口を隠さずに豪快に笑う、よく言えば素直な、悪く言えばしっかり化粧はしていても男みたいなやつだった。
北村の竹を割ったような、物事をバシバシと切っていく性格が時和は好きだった。
大学を卒業して就職して3年、大学時代の人間で付き合いがあるのは、北村だけだ。
「似てないな、お前の姉さん」
時和は北村の家の玄関を出て、車に乗り込みながら正直に感想を述べた。
「うん、よく言われる。美人でしょ、あの人」
北村はにやり、と口の端っこを持ち上げて笑った。
「今フリーだよ、おねえちゃん」
北村が上目遣いに面白がっていることがわかって、時和は呆れながら返す。
「ばか。誰が友だちの姉貴なんかに手だすかよ、めんどくせえ」
北村はそれには答えず、ただ笑って運転席のドアを閉めたのだった。
めぐみから電話がかかってきたのは、それから10日後だ。
「北村です。ほのかから預かったのだけど」
もうすぐ仕事も終わろうかという時間、データを処理していた手を止めて、携帯画面の液晶を見た。
しかしそんな言葉を発した声に時和は聞き覚えが無くて、一瞬いぶかしむ。
そんな時和の気持ちを察したのか、あ、とちいさく声を漏らした後、めぐみは続けた。
「北村めぐみです。ほのかの姉の」
「ああ・・・預かりものって?」
ほのかに近くに行くなら返してきてよ、と言われたものだから、と彼女は続けた。なんだ、あいつは電話くらい自分でかけられんのか。半ば呆れながら、姉というその人に尋ねる。
「それが・・・よく分からないんですけど。袋に入っているから・・見てもいいのかしら?」
どうせ貸してた本かDVDかCDだろう。北村は気に入ったものがあるとすぐに持って行ってしまう。
かしてねー、と軽く言われたそれは、しかし取りに行くまで返ってきた試しが無い。
彼女のそんな気楽さが友達を増やしているのも事実なのだけど。
しかたないやつだな、自分で返すのがそんなに面倒なのか。
「いいですよ。中身、どうせたいしたものじゃない」
使われたお姉さんも気の毒に、と思いながら時和は了承した。
そうですか、という声とがさがさと紙袋を探る音がして数秒続いた後、はたとそれは止んだ。
その沈黙があんまり長いので不審に思って、時和が声を掛ける。
「あの・・・・?おねえさん?」
その声で我に返ったようにめぐみは返事をした。
「あ、はい」
「どうかしました?」
嫌な予感がした。
「え、あの・・・そうね。男の人らしくていいんじゃないかしら」
笑いを含んだ彼女の答えに、時和は自分の考えが当たったらしいことを知ったのだった。
とりあえず私が持っていても仕方ないわね、とめぐみは言った。
忍び笑いがかすかに聞こえて、時和は居たたまれない気分になった。
へー、モザイクなしのって見たことないや、貸してよ。北村がそう言ったのはいつだったか。
北村のやつ、覚えてろよ。北村は男友だちのように気安いが、その気安さは時々無神経だ。
心の中で毒づきながら、時和はめぐみの人懐こい笑顔を思い出した。
かわいい顔だったな。と、とっさに思った自分に苦笑する。
「あー、すみません。すぐ行きますんで、おねえさんは今どこに?」
めぐみは時和の勤めている日本橋の会社のすぐ近くの喫茶店の名前を言った。
もうすぐ6時。今日は定時退社だ。
まったく学生時代じゃあるまいし。社会人になってからこんなこっぱずかしい気持ちになるのは久しぶりだった。
じゃあ、そこで。6時30分には行きます、そう言って通話を切った。
時和は溜息をつきながらデスクの上のPCのモニターを見つめる。青白い液晶はうっすらと自分の顔をうつしていて、おもわずもう一度溜息をついた。
喫茶店の軽いドアを開いたとき、時計は6時40分だった。
思ったより遅くなってしまったと思いながら、めぐみの姿を探した。
カウンターと小さな2つのテーブルがあるだけの小さなその店の、一番奥の席にめぐみは浅く腰かけていた。
時和は自分が一度会った人間の顔を割りときちんと覚えていられることに感謝しながら近づいていく。
「すみません」
ピアノの音色の流れる店内で声を掛けると、めぐみははっとしたように顔を上げた。
その下に薄茶色のカバーがかけられた文庫本があった。
「あ・・・」
短い沈黙のあと彼女はにっこりと微笑んだ。
ムートンのジャケットにデニムというカジュアルな服装で、腕に銀色の華奢な鎖を巻いていた。
時和は急に気まずさに襲われて、言葉を探し、短いけれど整えられた爪の先に置かれた文庫本に視線を固定する。
自分のスーツがとても貧相なものに思えた。靴くらい磨けばよかった、なぜかそう思った。
現にスーツファクトリーで一揃え適当に調達しただけの一張羅だった。
「・・・本、すきなんですか?」
仕方なくそんなことを聞いてみる。
別に答えは期待していなかった。
めぐみはちょっと首をかしげて、「そうね」と言った後少し考えてから答えた。
「好き・・というより、必要ね」
本が必要、という感覚はあいにく時和には無かった。
どちらかというと映画や漫画なんかの視覚に訴えるものの方がわかりやすくて好ましい方で、自分で振った話題なのに、なんと答えていいものかわからずため息のような相槌を打つ。
「はあ・・・」
あの時の相槌は間抜けだったなあ、と時和は我ながら思う。
わかんねえなあ、という顔をした時和にいたずらっぽく笑ってめぐみは言った。
「君にポルノヴィデオが必要なようにね」
しまった。
そう思った時には自分の顔が赤くなるのが分かった。
かっこ悪い。
北村、やっぱり後でなんかおごらせてやる。女になんか貸してやるんじゃなかった。
そうは思ったが、もうすでに後の祭りとはこのことなんだ、と時和は思った。
あの時、そのまま紙袋を受け取ってさっさと帰ればよかったのだ。
どうして、促されるまま隣に腰を下ろしてしまったのだろう。
今考えても、さっぱり時和には理解できない。
ばつの悪い思いをしながら、じゃあコーヒーを、と言ってしまったのはなぜだろう。
別にコーヒーが飲みたかったわけじゃない・・・と思う。確かに香りは鼻をくすぐる芳しいものだったけども、そのこと以外、何を話したのかさえ、覚えていないというのに。
覚えているのは、その場にいる自分が途方もなく場違いで小さく思えたことと、めぐみのやはり人懐こいのに静かな微笑みだけだ。
そうしておいて、どうしてこんなことになっているんだろう。
あの日以来、めぐみは時和の生活に侵入した。
文庫本を必要だと言った彼女。
まさか自分にはめぐみが必要になるとは思ってもみなかった。
なにをどう間違った、いや進んだか、いつのまにか彼女は時和の日常になった。
ただ、そう意識するまでにさして時間はかからなかった。
なにが自分をそうしたかは分からない。
ただ自分が生まれて初めて、恋に落ちたのだと思った。
それはひどく滑稽で、それでいて誇らしいような幸福なような、それなのに不安な気分なのだった。
そういえば。と時和は思う。
自分は彼女の年さえ知らない。
そして、彼女からの電話が今朝だ。
時和はゆっくりとめぐみの体を安っぽいベッドの上に押し倒す。
「・・・・いやじゃない?」
目を見ずに時和は聞いた。
大学生の頃付き合った女の子たちとはよくこーゆう場所に来た。
自分の部屋にも連れて行った。
けれどめぐみには似合わない気がする。
こんな趣味の悪いなんの模様か分からないカーテンとか、自分と彼女の前に誰かが足を踏み入れた部屋など。
似合わないと思いながら、自分の部屋には連れて行かないのも、また時和にとって自分のことなのに謎な行動だと思った。
めぐみはいつも自分に奇妙な行動を取らせる、そんな気がする。
あいかわらず口紅のみのめぐみの着ているキャメルのセーターと黒いパンツはとてもシックだ。
シック。ラブホテル。彼女にするようにして。彼氏。めぐみ。
そのどれにも共通点はないような気がして、時和はどうしていいか分からなくなる。
ズボンの下には期待した別の生命がいるとしても。
「嫌がってるように見える?」
めぐみは時和の頬に片手を添え、まっすぐに瞳を覗き込む。
この人の微笑かたはとても静かだなあ、と時和は思う。
薄暗くした室内に横たわっためぐみの髪がシーツに波を作る。
きれいな人だ。
そう思った途端、そう思った自分のあまりの恥ずかしさに倒れそうになる。
最初に彼女に対してなんの感慨も抱かなかった自分が途方も無い阿呆に思えた。
つまりは。
そういうものなのだ。
触れない。
触りたい。
耳の下から続く白いうなじはほんのりと熱を帯びていて、そこから泣きたくなるような匂いがする。
なんだってこんなに好きになったんだ。
彼女の体や瞳や溜息の前に、なす術も無いと思い知らされ、たった一人の人間にこんなにまで傾倒していることに気がつくと、頭を抱えたいような衝動に駆られる。
めぐみに会うまでに、自分があまりにもなにも知らなかったことを知っていく気がする。
たとえば、女の体の線はほとんど尊敬できるほど美しい、とか。
そういえば、美しいなんていう言葉を思いついたのもめぐみに会ってからだ。
この人の前で、僕はまるで子供のようだ、と時和は思う。
事実、たぶん彼女よりもずっと子供だ。
震えていた手と同じだと思う。
だから時和は観念する。
観念して、服を脱ぐ。子供は子供らしい方法でめぐみを愛しだす。
多分、稚拙に。多分乱暴に。
それでも、微笑と同じように静かに漏らされる声に安堵を覚える。
これでいいのだ、と言われているような気がして、手のひらはめぐみの体温を吸い熱くなる。
心地よい温度だ、と時和は思った。
この世のなによりも。
溺れている気はしなかった。
なぜならめぐみは微笑んでいるから。その表情が時和を誇らしい気持ちにさせる。
他人の言動が誇らしいなんて馬鹿げている。
それでも時和は嬉しかった。自分の腕にめぐみの白い皮膚が張り付いている。
それは、きっとなによりも彼の中を満たす。
ほとんど、愛しているんじゃないかと思うくらいに。
「ねえ、霧の中ってすき?」
足を絡め、手のひらを時和の胸において、唐突にめぐみは言った。
「霧?」
「そう」
考えたことないなあ、そうぼやいて、考える。
いつの間にか、自分はめぐみの質問にならば、今まで考えなかったことまでも考えるようになっている自分に気がつく。
霧。
濃くむせるようなその中はあんまり気分のいいものでは無い気がする。
「私は好きよ。遭難してるみたいでしょ」
迷子になりたいの?
ちがうの、もう迷子なのよ。だから気分にぴたりとはまるの。
時和は意味が分からず、自分の脇の下に収まった彼女の顔を覗き込む。
遭難。
迷子。
どちらもあまりいいことではないように思えるんだけど。
そう感じた矢先、めぐみのやわらかく湿った唇が近づいてきて時和の思考は止まる。
そうしてめぐみに向かう。
どうしてこの人は、こんなにも自分に作用する術を持っているのだろう。
自分はこの人にとって活字よりも必要なものになっているのだろうか。
そう疑問視しても、答えなど最初からない。
無機質にまで嫉妬する自分にまったく呆れるけれど。
そんな時和をよそに、今日は霧が出るらしいわ、と彼女は独り言のように言った。
ホテルを出た後、めぐみは時和の頬に軽くキスをした。
外国人の挨拶みたいだ、と時和は思った。
思っているうちに、またね、と言って足早に駅前に列を成したタクシーに乗り込むとそのままこちらは見なかった。
外はやはり寒かった。人気は、もうほとんどなかった。
冷蔵庫より冷凍庫か?と時和はコートの襟をしっかりと閉じてタクシーの走り去った方向をしばらく見つめた後、歩き出す。
電車を乗り継ぎ、うちに付くころにはいつの間にか本当に霧が出ていた。
その中を歩きながら、時和は確かに遭難しているみたいだと思った。
知っているはずの道がよく分からない、知らない道のように思えた。
心臓の音がほんの少し早くなった気がした。
なるほど、遭難か。
こんな方向を示す目印が山ほどある街の中で、行方不明になるようなことはきっとない。
大規模な停電でも起こらない限り、ここから光や目印が消えることもない。
そしてそれらの印を読めないほど子供ではなかったはずなのに。
それでも道は不透明でもやがかかっている。
さしずめ、僕はめぐみという存在の上では手探り状態なのだ、と時和は溜息をついた。
・・・・もしかして、自分はほんとうにロマンチストなのか?。
ほの暗い水蒸気の中でぼんやりと彼は考える。
めぐみ、彼女も遭難しているのだろうか。
迷子なのよ。
彼女の少し悲しげな声を思い出す。
僕みたいに?
だとしたら、それはすごい事だけれど、まだ時和にはあまりよく分からない。
にやりと笑った北村ほのかの顔が唐突に浮かんで消えた。
少なくとも、僕は。と時和は思う。
霧の晴れるころになっても、遭難したままだ。
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