「あ、花ちゃん。もういきそうだね」
 陽があたしの頭の後ろで独り言のように言う。体温で湿った布団のはんなりと柔らかい熱が、あらわになった胸の前で無意味なものになる。上気した頬と詰まった呼吸の中で、何かを待つようにきつく閉じた瞼を、薄く開く。
陽介と花。二人の名前。ふたりとも名前から連想できる暖かい春の季節のイメージにそぐわないことを、している。
 でも、気分はとっても暖かい。小春日和の縁側のような情事。あ、小春日和は秋か。ま、いいや。どっちにしろぬくぬくとしていることに変わりはない。
ゆっくりと、時々激しく息が合わさることがこんなに心地の良いものだと思い出す。思い出して、過去の誰よりも陽のこと、一番上手だと思う。それほど、あたしは陽にかまけている。
 そして陽も。
 口が半開きになったまぬけな顔。この男も、あたしにかまけている。愛しい。
 愛しいと思うと急に、陽のぼさぼさになった髪の毛から絡みついた足の指にいたるまで、全部がいたいけに思えてくる。いたいけな陽は、あたしを後ろから支配して、その作業に没頭している。ぽたりと落ちてくる水滴にまで、体は反応する。
 あたしはまるでやわらかい物になって、腕の中にすっぽりと抱きすくめられ、ぐにゃりと丸まり、もうそこから這い出すこともしないまま彼のされるがままになる。
 気持ちがいいことは好きだ。
 だからセックスが好きか、と聞かれると、今はたぶんそうじゃない。陽とする事以外は、全部好きなことじゃない。自分が陽とするようなことを、違う誰かとするなんて想像もできない。
 もう、そうなってしまった。そうなってしまった自分をとても可哀想にも思う。こんなにも人に気持ちを移してしまって大丈夫なのか、と。
 いいことも痛い目にもあった過去の男たちを思い出して、少し心配にもなる。
 他人じゃないか。
 けれど、もうそんなふうに距離を置いて考えることなど出来なくなって、自分の半身のように寄り添うってなんてくつろいだ気分なんだろうと、うっとりする。
 危険?
 だけど、仕方がない。あたしの場合、それが恋に落ちるということなのだ。
 
 
 オープンテラスのカフェで友人とお茶を飲みながら仕事の話をしていたら、声をかけてきたのが陽だった。
 ブラックスーツにブラックタイ。ロングノーズの革靴もブラックで、手にはださいセカンドバッグを持っていた。
 見るからに葬式帰りなその男は、かちこちに緊張しながら、あたしの方におずおずとメモを差し出した。
「あのう・・・。気が向いたら、ほんとに気が向いたらでいいんで、これ俺の電話番号です」
 葬式帰りにいわゆるナンパをしてくるという不謹慎な行動が、その時とてもおもしろかったので、思わずメモを受け取ってしまった。
 むろん嫌いな顔ではなかったからだが、だからといって特別好みの顔なわけでもなかった。
 ただその時は恋人と別れてしばらく経っていて、心に余裕があった。
 渡されたメモには、いまどきメールアドレスではなく電話番号。
 いいじゃない。古風で。
 仲間に呼ばれ去っていく彼の後姿を眺めながら、隣で同僚の今日子が呆れた顔をしていた。
「かけるの?」
「うん?そうね、気が向いたら」
「物好きね。見た?あのセカンドバッグ。もう絶滅したかと思ってたよ」
 もちろんあたしも今日子も、その種のあたしたちにとっては忌むべきファッションが未だに往行しているのもわかっている。物好きと言われ、そうかも、と答えると今日子はやれやれというように顔の横で大げさに手を振った。
「・・・あ、そう。それより、明日の受注会なんだけど」
「あ、うん、そうね・・・」
 話を戻す同僚に合わせ、あたしは紙切れを無造作にバッグの中に落とす。
 そうしてその場はそのまま何事もなかったかのように仕事の話に戻った。
 視界から消えた瞬間に、もう男の顔も忘れていた。
 
 再び思い出したのは、数日してそろそろ別のバッグにしようかなと思い、今まで使っていたバッグの中身を全部出した時だった。
 座って整理していたので、紙切れは買ったばかりのアナイのスカートをひらりとすべり膝に落ちた。
 走り書きされた手書きの番号が新鮮で、名刺ではないそれがあたしの興味をひいたから、かけてみたのは本当にただの気まぐれだった。恋人もいなかったし、気軽な気持ちだったのだ。
 彼と恋人同士になるにはそう長くかからなかった。
 最初に通信系の会社員だと教えてくれた。
 あたしは20代後半向けの洋服を扱うショップの店員だと説明した。
 陽はよくしゃべる男だった。
 あたしと彼はいろんな話をした。
 趣味のこと、仕事のこと、好きな本のこと、最近気になっていること。
 あたしたちはなんでも話した。
 それからよくセックスもした。彼はしている最中もよく口を使った。あたしのどこがどんなふうにかわいいかを褒め、素直に快楽を口にした。
 あまりにも饒舌なその口ゆえに、あたしは彼の言葉をそのまま信じた。
 そして甘えた。
 毛布に包まってさまざまな事について語るとき、あたしは彼と同じく饒舌になった。
 陽の前だと、安心して子供になれる自分がいた。
 陽はよくあたしにプレゼントをくれた。なにかと機会を見つけては、高価なブランド品から小さな花まで、毎回会う度に何かサプライズを用意しているのだった。
 金銭的なことについて尋ねると、心配しなくてもけっこう稼いでるから大丈夫、としか言わなかった。
 通信業界にもいろいろあるだろうから、陽はいわゆるエリートなのかなあ、とあたしは思っていた。でもあんまりそんな風に見えない。それもあたしの気を引いた。
 あたしは付き合った男の家には行かないようにしていたから、陽がどこに住んでいるかも知らなかった。
 彼氏の生活に入り込むのはあんまり趣味じゃなかった。
 過去入り浸りすぎてだめになった恋のことも、あたしが陽を詮索しない理由のひとつだった。
 会うのはいつもあたしの部屋かホテルで、あたしの部屋はそのうち、陽がくれた贈り物で一杯になり始めていた。

「ごめん、今日は遅くなりそうなんだ」
 と、その日彼は言った。
 あたしは自分も打ち合わせがあるから遅れそうだと告げ、約束の時間を延ばした。
 本当は打ち合わせはとうの前に終わっていたが、忙しい彼が焦らないように、と配慮した。
 ふいに空いた時間を、いつものカフェで過ごそうと、交差点で信号待ちをしている時、ふと何時かを気にして腕時計を見た。
 待ち合わせまで、まだたっぷりと時間はある。
 でも、もう待ちきれない気分だった。
 早く会いたい。
 あたしは、こんな風に男に会いたくて胸をときめかせているのは、もしかしたら学生の時以来かもしれないと思った。
 交差点のすぐ横では、道路の補そう工事をやっていた。
 工事中注意の看板がやけに黄色くて、新品ぽい。
 立ち入り禁止を勧告する柵も並んで、なんだかとてもにぎやかだった。
 うるさい音を立てながら、機械を動かす男や地面に掘られた大きな穴の中に入った男たちが忙しく働いている。
 あたしは、おんなじ仕事でも、これはできないなあ、とぼんやり思った。
 泥にまみれて仕事をしたことがない。
 多分、陽もないんだろうな、と思った時、ががががと大きな音を立てていた機械が止まって、それを操作していた男が顔を上げた。
 あたしはそれを見るともなしに眺めていた。
 一瞬なんだかとてつもない違和感を感じた。
 何かを見逃したような気がした。
 違和感の理由を見つけようと、もう一度作業員の方を凝視した。
 頭をあげた男の顔が記憶と一致するまでしばらくかかった。
 それから見間違いかと目を凝らしてみたが、やはり間違いようもなく彼だということを認識して、愕然とした。
 舞い上がる粉塵の中、汚れた作業着に身を包み、彼はそこにいた。
 更に彼を呼ぶリーダー格らしい男の声で、それは立証された。
「おーい、陽介。そっち終わったら、こっちに来てくれい」
「はい、わかりましたー」
 陽介。
 その名前を聞いた時、どきんと心臓の音がした気がした。
 信号が変わって、待ち人が移動を始める。
 汗を滴らせた陽が、まるで別人に見えた。
 いろんなことをあたしに話して聞かせた、彼の声が頭を回った。
 気が付いたら、あたしはふらふらと彼の目の前に立っていた。
 陽は、自分の目の前に立った人影に訝しげに視線を上げる。
 そして、その目は大きく見開かれた。
 手にしたなんだか分からない機械が、ごとんと滑り落ちた。
「花ちゃ・・・」
「嘘つき!」
 吐き捨てるように言った後、とんでもない憎悪が襲ってきた。
 なにが、通信系の会社員だ。けっこう稼いでるから大丈夫だ。全部うそじゃないか。
 ここにあるなら貰った物を全部投げつけてやりたい気分だった。
 ワンピース、指輪、バッグ・・・・。金銭的な余裕のある男だと思ったから、受け取ったのだ。
 嘘をついてまで、それらの品物が欲しかったわけじゃない。
 陽はしょんぼりと下を向いて唇を噛み締めている。その姿はなんとも情けなかった。
 そして、確かにいつもの黒いスーツよりも砂色の作業着の方がはるかに似合っているのを認めざるを得なかった。黒ずんだ膝や肘部分。すれた軍手からも、彼にとっての日常の匂いがした。
 日常。そうだ、これが陽の本来の姿なのだ。
 だから名刺ではなく、手書きだったのだ、と今更思った。
 あたしは、二の句が次げない程、激怒していた。
 甘いふわふわしたものすべてが、ガラガラと音を立てて崩れていくようだった。
 幸せだと思っていたものは、全部嘘の上に出来たものだったのだ。
 小汚い仕事着のまま、陽は何も言わない。
 それが更にあたしを苛立たせた。
 周りの作業員たちが、なんだなんだとざわめき始める。
「なんとか言ってみなさいよ!」
 言えるものなら。さあ。陽の前に仁王立ちするような形で、あたしはなんとか声を張り上げた。
 陽は困ったようにこちらをちらりと上目遣いでみる。
「ごめん・・・」
 掠れた声でそう呟いた。
「会社員なんて、うそじゃない。こんな汚い格好して、なにがお金の余裕はあるから、よ。
こんなブランド品買ってる余裕なんて、本当はないんじゃない!」
 あたしは左手首に巻いた時計を外して、陽に向かって投げつけた。
 それも雑誌を眺めながら欲しいなあとため息をついていたら、付き合って1ヶ月になる記念にと、陽がくれた革まきのエルメスの時計だった。
 もちろん一介の工事現場の作業員が買える代物じゃない。
 文字盤部分の金属がカチンという硬い音をたて、それは陽の胸に跳ね返され真っ黒に汚れた作りかけのアスファルトに落ちた。
 彼は黙ってそれを拾い上げ、ポケットに突っ込んだ。
 その時、色の黒い半ば禿げかかった初老の男がずいっと間に割って入ってきた。
 陽とは違う紺色の服を着ていたが、もはや紺色とも呼べないほど日に焼けて色が抜けている。
 男は顔を赤くしてまくし立てる。
「おい、ねーちゃん。さっきから見てりゃなんだ。陽介はなあ、あんたのために働いて働いて、借金までして、そこまでしてあんたに尽くしてたんだ。それをてめえ・・・」
「やめてください、新城さん。俺が悪いです。俺が花ちゃんに嫌われたくなくて嘘ついてたんです」
 汚れた顔の、自分の父親より上だろう男にすごまれ、一瞬恐怖で目が回りそうだった。
 けれど、他人に自分たちの築いた時間をどうこう言われる事はないのだ、と開き直って、必死で睨み返した。
 陽がそれを止めに入るのさえも、癪にさわった。
「でもよう、陽介」
 まだ言い足りない男は、それでも言葉を発しかけたが、他の作業員によって止められた。
「まあ、まあ。ここはおれらの出る幕じゃねえって、なあ?陽」
「すんません、門倉さん」
「いいっていいって」
 やはり同じ格好をした門倉と呼ばれた中年の男は、新城という男を取り成しながら、陽の手から離れた油まみれの機械を起こして引きずりながら、現場に戻っていった。
 そして、その途中で振り返って言った。
「おじょーちゃん、あんたが好きになったのは陽の外面だけかい?」
「門倉さんっ」
 陽の遮る声がして、門倉はへいへいと手を振ってそれきりこちらを見なかった。
 あたしはなぜか答えることができずに、唇を噛む。なんだっていうんだ、騙されていたのはこっちなのに。
 まるであたしが悪いみたいじゃないか。
「ごめん、花ちゃん。本当は早く・・・」
 陽がまっすぐこちらを見て、口を開いた。
 けれど、あたしは駆け出していた。なにか謝罪の言葉を言いかけた陽を置いて、その場を走り去った。
 もう1秒だって、顔を見ていたくなかった。
 なにもかもを話すあの唇から真実はもう出てこない、と思った。
「花ちゃんっ」
 彼はあたしの名を呼んだけれど、あたしは振り返らずに走った。 

 数日経っても、頭の中は裏切られた気分でいっぱいだった。
 仕事もうまく回らず、ミスばかりしていた。
 お客様相手ならなんとか取り繕って愛想を振りまいてはいたが、内心を考えると接客業なのに、と悔しくなった。
 けれどどうしても、別れる、とは口に出して言えないのだった。
 もちろん心の中では何度も、別れる、別れる、と繰り返した。繰り返すたびに、涙がにじんできて受注書がうまく書けなかった。
「単純に、気が付かないあんたも悪いよ」
 と、今日子は新作のカタログをチェックしながら言った。
 ばっかじゃないの、と思われているのは明白だった。
「貢がれるのの何が不満なのよ。借金してまで好きな女に贈り物なんて、女冥利に尽きるじゃない。さっさと仲直りしてきなよ」
「・・・できない」
 そんなに簡単に許せない。お金がすべてではないけれど、ないのに無理してまで贈るのは、ただの見栄っ張りの身の程知らずだと思った。
 嘘をつかれた。
 あたしはずっと騙されていたのだ。あの陽の甘えた瞳に。
 甘えさせてくれた腕に。
 すべてを任せきって安心していたのに。
 今日子はため息をつきながら呆れたように首をすくめた。
「もともと恋なんて、身の程知らずになることじゃない。それが嫌なら、さっさと立ち直って、そうじゃない新しい男でも見つけてよ。仕事に私情持ち込むのはルール違反だからね。辛気くさいったら。そんなんじゃ、せっかくの素敵な服たちが素敵に見えない」
 その通りだと思う。
 もっとも、今日子に言わせれば、陽のついた嘘など、かわいい嘘だと言うのだ。
 好かれたいがための、よく見られたいがためのいじらしい嘘。でもそんな風に思えない。
 
 そうしているうちにすべてを保留にしたまま、1ヶ月が経った。
 あたしは貰ったものさえ捨てることもできずに、仕事をしながらも毎日をぼうっと過ごしていた。
 我ながら情けなくて、最初のうちはよく泣いた。それを過ぎると泣くこともなく、ただ彼のことを思い出さないように努めて、けれどそれが無理だと思い知らされ打ちひしがれていた。
 自分を哀れむことにも疲れた頃、ようやく自分が寂しいということに気が付いた。
 なんだ、結局、陽がいなくてこんなにも寂しいのはあたしじゃないか。
 勝手に詮索もせずに想像して、勝手に(そんなに勝手ではないけれど、鵜呑みにして)思い通りじゃなかったことに腹を立てたような気がしてきた。
 けれども、もう遅い。
 壊れてしまったものは戻しようがないじゃないか。

 そんな頃だった。
 夕方、いつもそうするように店内の商品を陳列しなおしていた所に、お客様がみえた。
 彼女へのプレゼントを選びに来たという男性で、あたしは男性の傍に次々と洋服を運んだ。
 色とりどりの服があたしの目をかすませる。
 こちらなどいかがでしょうか?と微笑みながら、内心では流れるレースやサテンにやっぱりうちの服はきれいだなあ、と思っていたら、男性の動きが止まった。
 不思議に思って、どうかなさいましたか、と聞こうとするあたしを、男性はとても慌てた様子で見ていた。
「え?あのっ。僕、何かしましたか・・・?」
 なに事か分からず、きょとんとしたあたしに更に男性は困惑したように目線をそらして、それからポケットから少しぐしゃぐしゃになったハンカチを差し出した。
「え・・・?」
 その様子に気づいた今日子が、店の奥から飛び出してくる。
「申し訳ありません、お客様!」
 今日子は、あたしに向かって奥へ行くように指示しながら、平謝りに謝っていた。
「きょ・・・」
 言いかけて、あたしは気が付いた。
 自分の瞳から無数の筋が流れ出ていることに。
 それはまさに溢れていた。
 ああ、道理で目がかすむわけだ。
 今日子が頭を下げたその先に、帰っていく黒いスーツだけがやけにはっきりと見えた。

「それじゃ仕事にならない。さっさと彼のとこに行ってきて」
 戻ってきた彼女は心底あきれ果てた顔で言った。
 あたしは呆然と頷いた。
 涙がこぼれて、ぱたぱたと音をたてながら床に落ちた。
 仕方がない。
 これじゃ、もう、認めるしかないじゃないか、と思った。

 あたしは走った。
 陽を最後に見た工事現場まで、全力で走った。
 途中、ヒールが片方折れてこけそうになりながらも、必死で走った。
 走りながら、陽と出会ってからあたしは走ってばかりいるなあと思った。
 そうしてたどり着いた交差点の十数メートル先に、陽はいた。
 現場は数メートル移動してはいたが、まだそこにあった。
 やっぱり砂色のたくさんのポケットの付いた服を着て、なんだか分からない機械を握っている。
 まだこの現場が終わってなくてよかった。
 あたしは心の底から、そう思った。
 髪を振りみだし駆けてきたあたしを見て、彼は驚いたようだった。
 けれど、今度は重そうな機械をすべり落とすことはなく、自分の横に立てた。
「花ちゃん・・・どうしたの?」
 どうしたもこうしたもあるか。
 こうなったら、侵入してやる。
 過去の痛い経験など、知ったことか。
 あたしは、陽のことがもっと知りたい、と強く思った。
 薄汚れた手袋の中の指も、全部。
「陽の家に連れて行って」
「・・・え?今?」
 陽は困惑したように、周りを見た。
 警備員が興味津々といった様子でこちらを伺っていた。
 それまで真横で鳴っていた重機の音がぴたりと止んだ。
 と思ったら、アスファルトに掘られた穴の中に居た新城がにいっと笑いながら、言った。
「ほらな、ねーちゃん。俺は来ると思ってたぜ」
 その横に居た門倉も笑いながら続けた。
「陽、今日はもうあがりだ。おじょーちゃんを連れてとっとと帰りな」
 あたしはあまりの恥ずかしさに倒れそうだった。
 それなのに陽ときたら、うれしそうにお辞儀をしてお礼を言うと、あたしの手を握り締め、「よかったね、花ちゃん」と笑った。
 
 それから1時間後、陽が小さな鍵穴に銀色の鍵を差し込むのを後ろで眺めながら、少なからず緊張していた。
 錆びた白いドアが開いて、彼はあたしを中へ招き入れた。
 自分の後ろでドアの閉まる音がして、やっと
「借金するのだけはやめて」
 と、小さな声で言った。
 うん、と彼は大きく頷いた。
「花ちゃんが居てくれるなら、なんでもするよ、俺」
「・・・・やりすぎはだめ」
 ああ、そうだね。とまた彼は頷いた。
 あたしは陽の胸めがけて飛び込んだ。
「・・・・会いたかった?」
 違う、本当は会いたかったのはあたしだ。
 この胸に安心していたのもあたしだ。
「うん」
 陽は3度目の頷きを返しながら、あたしをしっかりと抱きしめた。
 そのまま、二人して狭い玄関に倒れこんだ。
 何もかもが散乱した部屋が、肩の向こうに見えた。
 でも緊張は解け、汚れた作業着も、爪にこびりついたアスファルトの出来損ないも、もうなにも気にならなかった。
 この部屋にあるすべてのものを、いつか知るだろう、と思った。
 とりあえず今は、目の前の男のことで手一杯でいい。
 冷たい玄関の、下敷きになった硬いティンバーランドの登山靴の上で、
「俺、ほんとはスーツ、あの黒いのしか持ってないんだ」
 と、彼は申し訳なさそうに言った。
 黒く光る革靴だけが、作り付けの靴棚の上に大事そうに乗せてあった。
 それから、花ちゃんと会うときは毎回ネクタイだけ買ってた。そう付け加えた。
 どおりでいつも新品のようにきちっとしたタイを締めていると思っていた。
 それなのに洋服を扱う仕事をしていながら、スーツが同じことに気が付かなかったなんて。ショップの店員としてまったくの失格だ。
 けれど、それほどまでに、彼との時間がいとおしいものだったということを知る。
 着ている服など、抱きしめられたら、なんの意味ももたないのだった。なじんだ匂いだけで、もう充分だったのだ。
 過去の男にはそんなことなかったのに。
 何を着ているか、靴は?時計は?バッグは?
 そうやって、例え自分の男であっても品定めしてきた。
 それが陽には当てはまらないと知ったとき、負けた、と思った。
 くだらないことにこだわっていたものだ、とも思った。
 そして、もう自分は、陽の一部ではなく、陽という人すべてを愛してしまったのだと思った。
 それは悔しくもあり、誇らしくもある感情だった。
「いい。陽にはスーツなんていらない」
 あたしを抱きしめる腕さえあれば。
 あたしを甘やかす胸さえあれば。
 そしてあたしも甘やかしてあげる。
 抱きしめてあげる。
 あたしは鼻を擦り付けて、精一杯鼻腔に陽の匂いを取り込んだ。
 香水に混じったアスファルトの匂い。
「あの日、花ちゃんに電話番号渡した日ね、ほんとは初めて花ちゃんを見かけたわけじゃなかったんだ」
 そう彼は言った。
 それから陽は語った。自分がしばらくあのカフェの近くで仕事をしていたこと。いつもお茶を飲みにくるあたしを見ていたこと。雇い先のお偉いさんが亡くなって、葬式に行った帰りに今だったら、と声をかけたこと。
最初からだますつもりじゃなかったこと。けれど、自分の知らない世界で働くあたしに嫌われまいと見栄を張ったこと。
 そういったことを、彼はゆっくりとあたしの頭を抱えたまま話した。
 もう決して離すまいとしているように、その腕はしっかりと巻かれていた。
 あたしはその腕の中で、彼の話をまるで子守歌のように聞いていた。
「お布団に連れて行って」
 そう言うと、陽はまた頷いて、あたしをよいしょっと抱えあげた。
 あたしはされるがまま、体を預け、足元に散らばる雑誌や服やいろんな彼の破片を眺めながら、運ばれた。
 そして部屋の奥のぐしゃぐしゃになった布団以外は辛うじて何も乗っていないベッドに、陽はあたしを横たわらせた。
 頭の芯がくらくらするほど、陽の匂いがした。
「花ちゃん、俺、花ちゃんのこと抱いていい?」
 彼は心配そうにあたしを見る。
 嘘つきな陽。
 それでも傷つけたくてついた嘘など、たぶん彼にはひとつもないのだ。
 許したわけじゃない。
 でも仕方がない。
 あたしは、この男の仕事を愛したわけじゃない。
 そしてまだ陽という男を愛している。
 きっと陽はまた饒舌に語るだろう。
 そこにはほんの少し嘘も雑じるかもしれない。
 それでも。
 小春日和のような暖かな腕は、もう離れることはない。
 あたしは、恋におちたのだ。