どうしてそんなことを言ったかというと、さしあたって理由などはなく、ただ口をついて出た言葉をそのまま引き戻さなかっただけのことなのだ。
 つまり。
 充がこれほど怒るように、わざと仕向けたわけではない。
 目の前で激怒する男に驚きつつ、そんな風にチカはたった今吐いた言葉を反芻した。
 なんていったかな?
 ツカエナイオトコ。
 ・・・・あ、そりゃ怒るか。
 声も出せぬほど怒っている男を初めて見て、そう気づき心の中で舌を出したが、もう遅い。
 充の形のいい眉は怒りのあまりに無表情になっていた。

 恋に落ちたのはそうしようと思ったからだ。
 寂しかった。
 普通の両親も、足りなくないほどにある物質的なものも、笑ったり遊んだりすることに十分な友達もいた。
 けれど自分には、暖めてくれる毛布のような男が必要だと思った。
 チカはとても恋に落ちやすい。
 そしてそれを自覚していたし、それを悪いことだとは思わなかった。
 自分に足りないものを補おうとして何が悪いの?
 いつもそんな気持ちで、始まっていく恋を受け止めていた。
 充とそうなったのは、充の手がチカ好みだったからで、 それと最初に言った言葉がおかしかったからだと思う。
 真夏、大学の構内を歩いていた時だ。
 陽射しはかなり強かった。
 人が前にも後ろにも横にもたくさんいた。
 けれどチカみたいな女はあまりいなかった。
 どちらかというと同級生の男受けしそうな子たちは、こぞって自然に見える化粧や、かわいらしく清楚な服やアクセサリーを着けていたし、
 男の子たちもそれに賞賛を与えている。
 チカはそんな子たちを横目にすたすたと歩いていく。
 太腿も露なズボンに、身体に張り付くぴったりしたTシャツ。
 髪は短く切りそろえられ、襟足はいつでも整えられている。
 素足に高いヒールのサンダルを履いていて、アクセサリーは銀色のアンクレットだけだ。
 別に背伸びをしているわけではない。
 大好きな山田詠美のお話にでてくるような、そういう格好が好きなのだ。
 たまには振り返る男の子もいる。
 けれど、彼等はそうするだけで、決して声を掛けない。
 その方が楽でいいわ。
 チカはそう思う。
 同じ歳の男の子なんて子供っぽくて。
 あたしはもっと大人の人がいい。
 実際彼女は少しばかり、大人と呼ばれる男たちに可愛がられていた。
 綺麗な格好をして座って、笑い、おしゃべりをする。
 時にはベットに入り、おいしいものを食べさせてもらう。
 あたしを包んでくれる物が必要だもの。
 そう思いながら、音を立てさっそうと進むチカの後ろの方で少し高めの声がした。
「やあ、かわいこちゃん」
 わ、びっくり。
 まったくふざけてる。ホットパンツから潔く焼けた足を出したあたしを、かわいこちゃんだって!?
 この人言う相手間違ってる。サンダルの上のアンクレットはプラチナなのに。
 これだけは、ちゃんと自分で買ったモノだ。そういう物を買える程に、もう、かわいこちゃんなんて言われる歳ではない。
 おもちゃのビーズのアンクレットなんて、横になったら痛くてつけてはいられないのだ。
 チカは後ろからかけられたその声に吹き出し、思わず振り向いた。
 まるで外国人みたいな口調で言った男は、穴の開いたジーンズにボロボロのスニーカーをはいていた。
 マドラスチェックのシャツなんか着てる。
(ふるくさい、この人)
 チカは即座にそう思った。
 だって、髪だって眉だって、形は綺麗な線を描いているけど、まるで整えられていない。
 バックもななめにかけて、まるで子供ね。
「悪いけど、言う相手、間違ってるわ」
 チカは笑いながら感想を口に出してあげた。
 男は一瞬きょとんとしてから、のそっと唇を動かした。
「僕にはかわいかったんだけど間違ってるのかなあ」
 その様子に、なんて無防備な人だ、とチカはあっけにとられてしまって不覚にも同じようにきょとんとしてしまう。
 その時から恋に落ちた。 舌打ちをしたい気分だった。
 こんな男に恋なんて。
 確かに恋は好きだ。だからいつ恋に落ちてもいいと思っていたし、探してもいた。
 楽しくて、浮き足立つようで、暖かくて、そして少しせつない気持ちにさせてくれる愛しい男。
 でも、これはあんまりにも「不慮の事故」だった。
 まさか。
「名前は?」
 チカが小さな声で聞いた。
 なぜか屈辱的な気分だった。
「充。君は?」
 聞いて、ジーンズのポケットで手を拭いてから、彼は手を出した。
「・・・チカ」
 子供のような行動なのに、その手は湿り気を帯びて、図らずもつい性的なものをチカに連想させたのだった。


 そうして付き合い始めた二人を回りはさも意外だ、と言わんばかりに騒ぎ立てた。
 チカの女友達はこぞって充の垢抜けなさやエスコート不足を笑い、男友達は苦笑いしながら「いつまで続くやら」と口々に言った。中にはあからさまにそれはおかしい、と言ったやつまでいる。
 チカもとてもそれには同意できる。
 確かに充はスマートさに欠けていたし、チカ自身いつまで続くか、なんて知る由もなかった。
 それに対し、仲のいい友達の一人、晶が言った。
「仕方ないよ。だってチカ、あの子に恋しちゃってるもん」
 なるほど、一様に納得する友人たちの中でチカは首を捻るのだった。
 恋をしている。
 そうだろうか?
 本当に自分は彼に恋をしている?
 確かにいい子だとは思うけど。
 今まであたしが好きになった人とは、少し、違うみたいだ。
 でもまあ、心地いいからいいか。
 考えて、いつもそういう結論になる。
 確かにあたしは毛布が欲しい、と思ったのだから、
 それに関しては、充は申し分なかった。いつでも暖かい気分にさせてくれる雰囲気というものを持っていたから。
 手をつないだり、一緒に映画を見たり、ときにはキスをしたり、そういう乙女チックな、と称されるデートのパーツを組み立てながら、それでもチカは少なからず焦っていた。
 充はチカをデートに誘う。そしてともに時間を楽しみ、そのままさよならのキスをして、帰っていく。
(???)
 チカの頭はいつもそこで?マークだらけになる。

 まさか本当に毛布なんじゃないでしょうね?
 チカはそう思い、そんな自分を少し浅ましく思う。
 法律にひっかかる歳じゃあるまいし。
 自分とそうなろうとしない男など、チカは見たことがなかった。
 大人たちは、優しくエスコートしてくれるだけではなく、かならず、その事も付加価値としてついてきた。
チカはそれを疑問に思ったことはない。
 なぜならそれは当たり前のことだと思っていたし、チカにもそれはとても気分のいい事だったから。
 その事を話すと晶は怪訝な顔をした。
「大丈夫なの?チカ。やってもいない男に深入りしないでよ?」
「うん」
「彼、出来ないの?それともまさか童貞?」
「さあ?知らない」
「ええ??チカったら、そんな人間以下みたいのと付き合ってるの?」
「知らないってば」
 いつもの晶の口調に少しイライラしながらチカは跳ね返す。
 そんなものはこっちが聞きたい。
「チカ?怒らないでよ。だってさ、そんなのあたしらの範疇外じゃん」
 同じように男を選んできた晶がそう言う。
 それはそう。チカにもそれは範疇外で、むしろ面したことのない問題だからこそ、困っているんだから。
 そんな男はいなかった。
 そう呟くチカに、それでも彼女を心配している女友達は、聞いてみたら?などと無責任なことを言って、
 またチカを困らせる事を提案する。


 充の部屋は広くはない。
 おまけに陽も射さない。
 くすんだカーテンのすぐ向こうには似たようにひなびたアパートメントが隣接しているし、
 玄関を開け放つには少し物騒すぎる。洗濯機は外にあるから、洗濯は億劫だし、掃除も適当だ。
 だから、貧乏な学生の部屋は、少し湿気た匂いがする。
 そして埃っぽい。対極の匂いが一緒にする部屋。
 とりわけ男の子の部屋は。
 そんな、Tシャツがポスターのようにぶら下がる部屋で、チカと充は並んで、テーブルに並んだ食事を見つめていた。
 ボールに無造作に投げ込まれたレタスとトマト、それにオニオンドレッシングがまぶしてある。もうひとつの皿には薄焼きの豚肉。塩と唐辛子が振ってあって、焦げ目がいい匂いをたてるほど焼きたてだ。
 でも、箸もスプーンも用意されていない。
「・・・ちょっと、充。これどうやって食べるのよ」
「どうって・・・手でつかんでじゃないかな?」
 ええ??
 チカはそう言われ、もう一度皿の中の平たい肉を見た。
 そんなこと言ったって。
「油落ちるよ」
「新聞ひけばいい」
 新聞なんか取ってないくせに。
 さらりと流す充に呆れていると、充は近くにあった漫画雑誌をまとめて数枚引きちぎり、チカの前に置いた。
「これの上で食べなよ」
「・・・手で?」
「そう、これをね、肉でさ、巻いて食うとうまいんだ」
 にっこりと笑う彼に押され、チカは恐る恐る肉を摘みあげる。
 手づかみで物を食べるなんて、幼児の時以来じゃないだろうか。
 ふとそう思った。
 その様子を見て、満足そうに充も肉をつかむ。広げた中にサラダを巻いて、おもいっきりかぶりつく。
肉汁や油やドレッシングが垂れて手を伝い、床の上に敷かれたザラ紙にシミを作った。
 かわいそうな漫画家の方々。
 まさか自分の作品がこんな形で使われているとは思いもしないだろう。もしも知ったら打ちひしがれて、もう書くのをやめてしまいたくなるかもしれない。若い恋人同士の食事で、ランチョンマットがわりにされてるなんて。
 悲劇だ。
 油が蛍光灯の光を含んで、指の間できらきらと光る。
「ね?うまいだろ?」
「うん・・・」
 ところが、である。驚いたことに箸もフォークもナイフも使わない、まるで原始人のような食事は、ものすごくおいしかった。
 チカは、この様子を友人たちが見たらなんというだろう、と思いながら爪ごと指をなめた。
 これ、おいしい。熱くて指が焼けそうだけど。
 変な男。カードも、食事用の道具すら使わずにおいしいものをあたしに食べさせた。
 貧乏な男の部屋で、肉を引きちぎりながらチカは、行儀の悪いあの指も、おいしそうだなあ、と思っていた。
 まるで焼き立てからすこし冷める前の食べ物のように、充の手は汗をかいていた。
 なんだかまだお腹がすいているみたい。
 そう思いつき、それこそ意地汚いような気になりながら、尚もその手を凝視してしまう。
 ふと、尋ねたい衝動に駆られ、チカは飲み物に手を伸ばす指の動きを見つめながらぽつりと言った。
「まさか、仕方しらないの?」
 突然にそんなことを聞くチカに、充は飲んでいたコーラを吹き出した。
 油でペットボトルが滑っていた。
「・・・は?」
「だから。SEXの仕方よ、知らないの?」
「そりゃ、知ってるけど・・・なんで?」
 目をしろくろしながら、チカの顔を見る充に苛立ちが増す。
「じゃあ、どうしてしないの?」
「どうしてって・・・したいの?」
 したいの?
 その言葉に、指に見惚れていたチカはかっときた。
 馬鹿にされた。
 そう思った。
 人は図星をさされたとき、怒るものだ。そうじゃなければ、違うのだから怒る必要もないだろう。
 それは哀しいだけだから。
 自分の頭に勢いよく血が上っていくのがチカ自身にも分かった。
 そしてよく考えもしない言葉を投げつけた。
「誰があんたみたいな使えない男と!」
 充の顔色がさっと変わるのが文字通り、見えた。
 悲しい、の間に怒りが広がっていた。
 チカはやってしまった、と思ったが取り消したり、弁解したりはしなかった。
 思っていないことなど、口にはでない。
 ということは少なくとも、充をツカエナイ、とどこかで思ったのだ。
 嫌な女かもしれない、と自分の事を初めてそう思った。
 重たい沈黙の後、充が尋ねた。
「そう思ってるの?」
 人を使えない、使えるで判断するのは、とても頭の悪いことだと思う。
 でも、自分はそう言った。
 それはどういうことか。
 チカは、答える。
「わからない。分からないよ、充。あんたのこといい子だと思うよ。
けど、身体も繋がってないのに、心からはどうやって繋がっていいのか分からないの。
そんなの友達でも見たことないし、経験もないの。
中学生でも、自分の体の有効な使い方くらい、知ってるでしょ。
ねえ、分からないよ、あたしのこと欲しくないの?」
 言いながらチカは、そうか、と思った。
 なんだ、あたし充が好きなんだ。
 だから欲しいのか。
 だから、その気持ちを先回りしない男が憎らしかっただけなのか。
 チカったら、そんな事も気がついてなかったの!?
 恋ってそういうことでしょ?
 今にも辛辣な口調の女友達の声がしそうで、チカは唇をかみ締めた。
 そうして気がつかなかったのだろう。
 充がため息をつき、チカを覗き込んだ。
 同情されてる?
 最悪の気分。
 あたしが男に同情されるなんて。
 チカは自分がものすごくかわいそうな生き物になった気がした。
「どうして君たちはそんなに不安なの?
僕の友達もみんなそう言うよ。
はやくやっちまえ、って。
僕は、恋をしてる。それも君にだ。
なのになぜ、それだけじゃだめなの?
僕といるの、楽しくない?
SEXできたら、それはそれで楽しいけど、
今も僕は楽しいよ。
君はなぜそんなに急ぐの?」
 ゆっくりした充の口調は攻撃的でも、ごまかしでもない色に満ちていた。
 それが分かるとなおさら、そんなのは屁理屈じゃないのか。でも、彼はそれでいいのかも。だから落ち着いているんだろう、と思った。
 イヤな男だ。悲しい気分のままチカは下を向いて、床に向かって答える。
「なぜって・・・・充はよく知らないからそんなこと言うんだよ。
恋って悲しいもんだよ。
ゆっくりしてたら、あっという間に終わっちゃうよ」
 笑い声がした。
 充の声だった。
 見ると、彼はおかしくてたまらないというように笑っていた。
「そんな風に思うなら、そんなこと思う君の方が悲しいよ。
それならもう恋はやめればいい。
おかしいなあ、普段は大人みたいに振舞うのに、そんなとこはまるで子供みたいだ」
 目の端に笑いの為の涙を溜めながら、充は言った。
 チカは急に恥ずかしくなって、尚のこと下を向いた。
 笑ってる。
 どうして?何かおかしいこと言ったかな?
 確か悲しい、って言ったはずなんだけど。
 バツの悪い思いをかみ締めて沸いてくる悔しさの上を、充の言葉がよぎる。
 それはチカの心に引っかかる。
 面白いほど、その襞を縫って入り込む。
 その声は、物の分かった大人のふりをしたチカの、子供の部分に作用する。
 ぴりぴりぴり、と紙がはがれる時の感触に似た感じ。
 あらわになった甘い匂いのするキャラメルを、早く口に入れたくてうずうずしている感じ。
 その声を待ちわびている、と自分で分かる。
 彼の口は動いて、こう言う。
「でもさ、恋の先を知らないほうが、きっともっと悲しいんだ」
 つまりは。
 どうでもいいんだよ。
 単純に。
 僕は君と居たいんだ、と充は言った。
 それに夢中で、だから寝ることは後回しだったんだ。
 初めて会ったときのような、のそっとした口の動きだった。
 もう一度言ってよ。
 チカは思わずそう言ってしまい、自分の言葉に赤面し、苦笑する。
 充が散らばった漫画の残骸を拾い、ついた油をそれで荒く拭った。
 それからチカの頬を両手で挟んで、撫でる。
 チカもそれに自分の手をかぶせる。
 やっぱり性的な手だ、と思う。
 暖かい。
 しかも食べ物の匂いがする。
 それはくたびれて肌に馴染んだ毛布、というにはまだ早い。
 けれど、その素質をもう見せ始めている。
 チカは考えながら聞いた。
「これも恋ってやつかな?」
「そうじゃない?」
 だとしたら。
 すごく気分がいい。