そうか、じゃあ、手をつなごう。
・・・・いいよ。
ただ、自分の物ではない銀色の環がはめられた指に触ってみたかった、それだけなのだ。
他意はない。
人のものを盗ろう、とかからかってやろう、とかそういうんでもない。
そんなことをするには、まだあたしは彼を知らな過ぎた。
ただ、その長い指に光る物があまりにも彼の一部になっているようにみえて、それなのにそんなことまるでおかまいなしにするりと指から抜き取ったものだから、危うくあたしはあ、と小さく叫びそうになった。
皮膚が。彼の指の一部が、外れている。
その様子は、なんだかとても無防備で、とてつもなくあたしの心をひっかいた。
そしてあたしは「それ」がどうなっているのか、触ると冷たいのかそれとも彼の体温と同じなのか、それを確かめたいという好奇心に勝てなかったのだ。
けれども、本当は自分の好奇心が向かっているのは「それ」自体でもなく、明らかに取り残された左手の方でもなかったので、困ってしまった。
どうしたらいいの?
あたしの視線は彼の締まった首や腕から一続きになった肌の上で迷子になる。出口を探してうろうろと落ち着きを無くす。もう少しで泣き出しそうなあの感覚。
触りたい。そのことだけに心を砕いている自分をすこし恥じる。
無機質の溶けた指。
あの指はあたしの胸のどこか動物的なものを疼かせる。
早くその欠けた部分を、戻して。
酸欠の魚のように息苦しい思いを堪えてあたしは思った。
その様子は目の前でシャツを脱いでいく男を見ているより、あたしを赤面させる。
おもわず目を逸らしそうなほど、あたしの脳内には刺激が強い光景に、状況を元に戻そうと思わず自分の手を伸ばす。その時あたしは、ほとんど本気で焦っている。
なのにやったことは、その抜き取られた指輪を、彼の右手の人差し指と親指の間から掠め取ることだった。
あ、イニシアル。
それにデイト。
うっすらと刻まれたその刻印を目にしたとき、初めてあたしは彼についてのほんのすこしのことを知る。
その窪みをなぞると、彼はくすぐったいようにくく、と笑った。
やっぱり。
これは彼の皮膚の一部なのだ。そこには長い時間とあたしには決して向いていない想いが宿っている。
そういうものを他人の前で外しちゃいけない、とあたしは手の中で鈍く光るそれを眺めながら思う。
これを今、人でざわめく深夜のホーム、ここから投げたら、彼はどんな顔をするだろう。
きっと、きらりと光って鉄の間へと消えていくだろう。
2番線の光に反射して綺麗に違いない。
そしてそれに気がつく人間はほんの一部だ。
いいなあ、やってみたい。
涼しいその顔が、驚きと怒りに歪む顔が見てみたい。
たぶんその時、感情はあたしへ向くだろう。それは快楽の縁にいる時の男の表情に似ている。
苦しいような、怒っているような、不安なような、表情。
いつだってそれはあたしの心引かれるモノなのだ。
驚きと苦痛。
けれど意地の悪い自分からの誘惑を必死で飲み込んで、あたしはそれを彼に返す。
心もとない彼の指の、すでにできた窪みへと収まる。
それがはめられた途端、彼の指は、まるで息を吹き返したように自信を取り戻す。
もとからそうだったかのようにまた皮膚に戻る。
知らずあたしはため息を吐き出す。
ああ、安堵。
そしてすこしの後悔。
きっとあたしは今、店先でお菓子を買えない子供のような顔をしているんだろう。
お財布の中身はからっぽ。
残金ゼロだ。心の中のマネークリップには彼のためのそれはない。
でもその方がいいのかも。
あの指は、たぶん自分じゃない誰かのために行使されているから、魅力的なのだ。
じゃあ、気をつけて。
そう言って、彼は逆ホームへ歩き出す。
その背中にいい男だなあ、と思う。
格好がいいとか、顔がいいとか、背が高いとか、そういうことではない。
ただ、琴線をひっかく男だったのだ。
あたしはちょっとだけ笑う。
琴線だって。
けっこう乙女チックだ。
けれどふと、自分がそれを待っていたのだ、と気づかせるのは確かにそんな琴線に触れるものなのだ。
停車した電車に乗り込み、ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら、窓の外の闇と灯りと人込みを眺める。
その景色も時に、細い糸を爪弾く材料になるのだ。
いくつかの駅を過ぎ、再び電車は速度をゆるめる。
ごとごとと音を立てて進む車輪はもうすぐ最寄り駅に着くだろう。
その頃には、あの光るわっかは冷たかったかそれとも彼の体温だったのか、もう思い出せない。
思い出せるのは、少しだけこちらを見た彼の、弱ったなあ、という瞳だけだ。