間違いなのかもしれない。
 桜井はそう思う。
 マチガイ。
 たしか辞書の定義によると、「間違い」という言葉には二種類の意味があったはずだ。
 彼は自分の脳みそを掻き分け、ファイルを引っ張り出す。
 ひとつは、誤り、もしくは正しくないこと、失敗。
 そしてもうひとつは、当たり前ではないこと、よくないこと。

 こんにちは。
 日名子が最初に桜井に言ったのは、そんな平凡な言葉だったように、桜井は覚えている。
 彼女には意図的に始めようという気がまったくなかった。むろん、桜井にも。
 昼下がりの公園。
 得意先への挨拶の途中、軽く一服するつもりで、その公園へ寄った。
 ベンチは空いていなかったので、彼は辺りを一瞥し、噴水のヘリに腰掛ける。
 水の匂いに少し涼しくなる。
 園内には3歳くらいの子供を連れた親子や、犬の散歩をしている初老の男性や、寝転がって笑い合う恋人同士などがいた。昼飯時からは若干ずれていたので、そんなに人は多くない。
 桜井はポケットからマルボロを取り出す。
 それと、マッチ。ライターは嫌いだ。
 しけったそれを何回か擦り、煙を吐き出した。 視界が少し婉曲される。
 その横に、影が揺れた。
 桜井はちらりと、なにげなくそこを見た。
 女がひとり座っていた。
 白いワンピース。清楚というイメージ。 ピンクの口紅。
 似合わない。
 桜井はそう正直に感想を述べる。
 心の中で。
 しかして、視線を感じてか、彼女が口を開いた。
 彼はただ、その言葉を字義通りの意味に取る。
 こんにちは。
 だから、そう返す。
 そこで会話は終わるはずだった。
 その間、彼女は彼を見ていなかった。彼という存在を無視するように。
 なんだ、この女。自分から挨拶しておいて、聞いていない。
 そう思って、ため息が出る。
 どうしてこう、女というのは自分勝手なのだ。
 そう、彼女のように。桜井はつい二年前まで、彼の家に居た女の顔を思い出す。
 かわいいのは最初だけだ。
 最後に女が言ったのは、どういう言葉だったか?
 桜井はさらに記憶のページを捲る。
 その途端きちんと彼の脳裏には映像化された女が出てきて、その瞬間を創り出す。
「間違っていたわ」
 あたし、あなたのこと、勘違いしてたみたい。
 彼の顔をまっすぐ見て、女は言った。そして、去る。たしか、玄関の外では、黒いバイクが待っていた。女はその後ろに跨り、動き出す。もう振り返る事はない。
 桜井は苦々しい気持ちでその映像を払う。
 そして、煙を吐きながら、自分をまぬけな男だと思う。
 特定の誰かを選んでしまっていたなんて。
 彼は、だから、もう女を追いかけはしなかった。追いかけても、無駄であろうことが、自分にはすっかり理解できている。そのことが彼を落ちつかせる。
 男も女も、結局は自分以外、誰を選んでも、それは続ける事はできない不可能だ。
 と彼はほんとうにそう思う。いつか歪み、すべてを壊すだろう。
 彼はそれを身をもって知ったと感じた時ほんの少し、自分からあるいは自分が去っていった、何人かの女にすら感謝する。心痛で死ぬ事はない。しかし、それによって架せられる物に背を向けたとき、何かが、彼自身の中の何かが死んだ。
 その屍骸は踏み潰されて、跡形もなく埋まっている。それが彼には分かる。そしてそれは幸福で、特別なことなのかもしれない。皆が知らないのだから。
 もっとも、本当は。
 と桜井はほくそえむ。
 孤独が一番自分を甘やかしてくれる。そうだ、踏みこみさえしなければ。それは時には世界をも味方にしてくれる。
 些細な、けれど大きな自由。そして彼はそれにとても、満足していた。
 とにかく、そこに座った彼女は言った。
 こんにちは。
 だから桜井は返した。
 こんにちは。
 その関係はそこで終わる、はずだった。


 次に桜井がその女に会ったのは、やはり偶然だった。
 いや、見かけたと言った方が正しいかもしれない。
 夜、仕事を終え彼は帰途につこうとしていた。一日の仕事を終えて疲れ切った身体を引きずって、帰るための電車に乗るため、昼間一服したその公園を横切ろうとした。公園は昼間とは違い、シンとしている。
 空気も冷たい。でも澱んでいる。端っこの方で、ホームレスの老人が風で倒れたダンボールをたて直していた。桜井は足早にそこを通り過ぎようとして、歩調を速める。
 そして噴水の前を行こうとして、気づく。
 彼女が、まだそこに座っていた。
  ぼんやりとしていた。
 変な女。
 彼は思った。
 白いワンピースは昼間の格好そのままで。彼女が桜井に気づいてほんの少し笑った。
 そして言った。
 こんにちは。
 今度は彼を見て。
 もしかしたら聞き間違い?
 桜井は思う。
 どちらでもいい。自分は無視しようとした。
 彼は確かにそう思った。

 しかし、なぜそうしてしまったのか。
 彼がしたのは、彼女に自分の背広を被せることだった。肩が冷たくなっていた。
 そして言った。
「こんにちは」

 今、桜井は日名子の部屋に居た。
 日名子、それが彼女の名前だとはさっき知った。背広はもう手元に戻って来ている。彼女の口はそれを告げるとき、とてもひそやかに動いた。桜井はまるで別の生き物みたいだと、思った。
 口紅は乾いて、桜色の絵の具のように張りついていた。
 彼はそれを眺めた。
 やはり似合わない。
(・・・・・なんの為にそんなものをつけたんだ?)
 それが傍目からとても作為的なことが、彼の心を荒立てた。
 つまり、それは何か(誰か)の為に引かれた思惑のあるものだと思う。
 口紅だけではなく、服も、もしかしたら彼女自身も。それらは自分に向けられてはいない。なのに、なぜか苛立っていた。
 作為は見えるたび、無様に崩れる。崩れるものはいらない。効力があるのは、そうではない、真実だけだと思う。ではそこからはみ出したのは何か?
 日名子を見つめてみても、誰かの為に用意されたであろう作為以外見つけられないのは、いっそ割り切れていいのかもしれなかったが。
「コーヒー、どう?」
 振り返って日名子は桜井に笑いかける。
 乾いた唇が縦に裂ける。
 香ばしい匂い。
 しかし、その様子(唇?)が桜井の口を利けなくする。
 喉の奥で空気を飲んで、絞り出す。
「・・・ああ、もらうよ」
「お砂糖は?」
「いや・・・甘いのはあまり」
「そう。じゃあ、これどうぞ」
 日名子は白いカップを2つ持って桜井に近づいた。そして右手を差し出す。甘い、匂いがした。
「・・・・甘いのは・・・」
「甘くないわよ、それ。匂いだけ」
 そう言って、彼女はキッチンカウンターの上の小ビンを指差す。
 キャラメルフレーバー?なにか分からず、とりあえず彼は差し出されたそれを啜った。
 たしかに味に甘さはなかった。だが、匂いは甘い。
 騙された気がした。なんだか女のようだと頭の隅っこでうっすらと思った。見かけの甘さの裏には苦さを持っている。隠し持ったナイフのような。 それは本体は光を放つ。けれどそれを、うまく隠している。
 しかし。桜井には、日名子がそれをやりきれていない、と感じられた。
 自分に見透かされる作為。
 彼はコーヒーを飲み干す。
 苦い。
 そして彼女を押し倒す。
 彼女はカップをテーブルの向こうへ押しやる。
 唇はすぐに湿り、そこから作為は剥がれ落ちる。服は彼女自身の手で脱がされ、そしてその腕は彼の首に廻される。自分の為に彼女の陰謀が張り巡らされることはない。
 それに彼は安堵する。
 心地いい。なにも余分な物のない関係。
 日名子が途切れ途切れにつぶやく。苦しさに似た言葉。その度に、桜井の中のいろんな物が死んでいく。それは屍骸になって、日名子の中に吸い込まれる。
 初めて触る身体。馴染んでいない女。そして剥がれ落ちる唇を、彼も口に入れる。
 おいしい?
 日名子はそんな風に聞いて桜井を困らせる。
 その言葉を反芻する。おいしい?
 分からない。
 とても、おいしいとは言いがたい。
 と、桜井は心の中で思う。
 しかし、唇は再び引き寄せられる。もう声にすら作為は滲まない。彼は、彼女を食べ尽くした、と感じる。 剥がして、食べた。
 でも、もしかしたら。
 食べられたのは自分かもしれない。


 深夜、桜井は喉が乾いて目が覚めた。
 かかっていた毛布を退け、とりあえず、周りを見渡す。
 日名子の姿がなかった。
 風が入ってきて彼は身震いする。
 知らない女の部屋。
 一体、知っている、というのはどこからが境界だろう。それが過去や、細かい性格や、どんな食べ物が好きか、というような好みの把握などなのだとしたら。彼は日名子の事をまったく知らない。しかし、彼女の肌や、笑い方や、ため息のつき方などを、すでにこの時点で知っている。それと、交わされた挨拶。
 それらは、何に分類されるのか。
 彼はそれすらも知る必要を見出せない。知の奴隷にはなれないと感じ、退化していく好奇心を始末し忘れたコンドームごとゴミ箱へ放り込む。
 喉が焼けそうだ。
 だから床に散らばった服をすばやく身につけて、水道に向かう。飲もうとして蛇口に頭ごと近づけると、ベランダで、影が揺らいでいるのが見えた。
 日名子が歌っていた。闇は月のせいか明るかった。
 何の歌だ?
 桜井は耳を済ます。
 日名子は歌う。
 彼に気がつかない。
 いいや、気づかないフリを、している。
 子守唄?
 誰のために?
 ああ、この女は不器用なのだ。
 彼はやっと理解する。
 そして鈍かったのは自分。
 意図的な仕草が向けられていたのは、だから彼。
 彼は、初めて、そこにあるすべての物に自分のピントを合わそうとしていた。
  彼女をかき集めようと必死に。しかし、それは無理なのだということに気がつく。
 彼女の周りの空気はさらさらと漂う。音もなく。影もなく。微笑は残像のように彼の網膜に焼きつく。
 昔、子供の頃見たTVのブラウン管をふと思いだす。しかし、記憶の中のそれより、遥かに彼女は鮮明。
 今、彼女は歌うのを止めて、桜井の傍に歩みよる。しなだれて彼によりかかる彼女の体温が、肩を染め浸透してくる。彼はそれに逆らえない。
 ・・・・いつから?
 あの場所で彼女は自分を待っていたのか。
 待っていた?
 違う。
 ただ、そこに居ただけだ。待ってはいなかった。
 彼女は反芻していただけなのだ。桜井が日名子の言葉をそうしたように。
 彼はテーブルに置かれたままの覚めたコーヒーに口をつける。
 一口飲んでそれは日名子用に用意されたカップだったことを思い出す。
 甘い。香りも、味も。
 そしてまた喉は焼ける。
 おいしい?
 彼女はそう聞いた。
 それが、彼女の中身だとしたら。いつからそれは形作られていたのか。そうだ、本当の意思は。真実のように彼の目には見えた口紅の色などではない。真実はひとつではないのだ、と思いついて、彼はふいに笑い出す。
 彼女もそれを見て微笑む。
 作為は口紅の下に。やはり女は男よりも一枚上手。だから 、自分に間違いを犯させる。
 誤り?
 よくないこと?
 それとも、 効力のない真実か?
 それもいい。
 そして、自由を放棄するという、間違い。
 それはもう、彼を苛立たせない。