綾瀬の背中を押したのは、生暖かい生き物のようだった。
 湿った感触が張り付いた自分の背骨に、思わず無理に手を回し指先でなぞる。
 撫で回してもそこには何もなく、それが錯覚だったのかとすら思う。
 けれどそれは錯覚などではないのを悟り、綾瀬は振り返る。
 ゆっくりと。
 その存在を確信して。
「鳴海」
 発した言葉は、果たして届いたのか。
 鳴海と呼ばれた女が笑った。


「えー、綾瀬さん、結婚してるんですか?」
 綾瀬の前で大げさに口を開け、それを手で覆いながら驚いてみせる若い社員の顔を見ながら、(だからどうした)と悪態をついた。
「見えない?」
 口では当たり障りのない言葉を返す。それが出来ないほど、綾瀬という男は野暮ではなかった。
 単純に、そんなことで会社を居ずらい場所にすることが面倒だっただけだが、いつもそれは人当たりのよい笑顔に包まれている為に、彼をいい位置、つまり社内での魅力ある男の一人に見せていた。
「見えませんよー。だって・・・・ねえ?」
 そう言いながら新入社員の香澄は隣に座った蒼子に同意を求める。
「そうですねえ・・・」
 蒼子は少し困ったように首をかしげながら綾瀬を見た。
 長く背中にたれる髪が揺れ、肩にはらりと掛かった。
 その様子は自分にしなだれかかる蒼子自身によく似ている、と綾瀬は思う。
 蒼子の目は綾瀬を少し非難している。
「綾瀬さん、指輪してませんしね。それにあんまり奥様のお話もなさらないし」
「それ、普通あんまりしないでしょう?恥ずかしいんだよ」
 綾瀬は憮然として答える。
 蒼子の視線の意味が自分だけを責めているものではないからだ。はたして自分以外の者への恨みまで負えるものだろうか、と彼は聞きたい。しかし、きっと蒼子は聞きはしないだろう。
「ま、こんないい男、人のものじゃないのがおかしいと思うよ」
 綾瀬は心の中でため息をついて、しぶしぶ口を開く。
 敢えて自分を茶化すことはどうやら成功しているようで、香澄はやだあ、などといってまた笑った。
 蒼子はそれを横にニコニコしているだけだ。
(こえー・・・)
 綾瀬は自分に向けられた感情に対し、正直、嫌なねっとりとした感じを抑えきれない。
 蒼子の視線。絡みつく、嫉妬。 媚びている唇。
(別れたいなあ・・・)
 綾瀬は最近そう思う。
 それは蒼子に対してだが、関係はもう一年になる。
 最初、誘いをかけたのは自分だった。けれど蒼子が自分に好意を持っていたのは知っていた。いつも何かを言いたそうにして綾瀬を見ていた。
 ただそれが目についた。そして新鮮だった。
 あんなにも熱心に自分を見つめる者を綾瀬は知らなかった。
 綾瀬の妻、鳴海は綾瀬に対して真剣ではあったが熱心ではなかった。それは恋人として付き合っている最中から、結婚した後もそうで、友情のような、と今では綾瀬は鳴海に対し思っている。夫婦は戦友なのだ、とどこかの作家が言っていたのは本当だ。わずかにあった甘い感情は数年が経つ内に流れ、流れたものは逆流してはこない。
 とにかく、綾瀬は蒼子の自分に向けられた多大な関心にひっかかったのだった。
 だから軽い気持ちで食事に誘い、酒に誘い、ベッドに誘った。
 ちょろいもんだ、と思った。自分に好意を寄せる女に足を開かせること。その簡単さに夢中になり、楽しみを見出し、油断した。間違った、とは思わなかった。
 その初期の段階を自分は十分に楽しんだ。蒼子もそうだったはずだ。
 あの、自分を見つめていたかよわいと見せかけて、貪欲な目。
 彼女は明らかに欲しがっていた。そして、綾瀬は与えることを選んだ。
 しかし、甘い気持ちが持てたのは最初だけだった、と綾瀬はここでまた思う。
 その後、蒼子は徐々に綾瀬を独占したいという態度を露にしてきたからだ。
 話が違う、と思った。が、言わなかった。それすらする努力が惜しかったからだが、それにより蒼子は自分に分があると思った。綾瀬は自分に傾いている。そう思い心でほくそえんでいた。それも綾瀬は感じていた。
(・・・・・めんどくさいなあ)
 蒼子も、自分も。
 同じオフィスの中で。空気を澱ませながら。二人の心は、もう、まるで違うとこにあるのを気にするのも馬鹿らしいような関係を続けている。


「綾瀬さん?」
 蒼子が不満そうな声を出した。
 その声に我に返った綾瀬は自分の状況を思い出す。自分の下にいる女が上目づかいに自分を見る。
(ああ、まただ)
 綾瀬はまたあのねっとりとした気持ちの悪さに駆られる。居心地が悪い。飲みすぎたわけでもないのに、頭の中身がぐるりと回転し、重く圧し掛かる。潰されそうだ、と感じて、おかしなものだ、とも思う。
「君の上にいるのは誰?」
「え?・・・おかしな人。あなた、でしょ?綾瀬さん」
 くすくすと密やかに笑う女の口元をみながら、その通りだ、と答えた。
  蒼子の手に力が込められ、催促する様に吐息が漏れる。機械的に、もしくは本能的に揺さぶる声が歓喜に満ちる。
 いい気なものだ。そう感じながら綾瀬は果てたのだった。
 それから数十分後には疲れた体と、反対に冴えた精神を持て余しながら、彼はコーヒーを啜っていた。
「綾瀬さん?どうしたの?今日、なんだか変よ?」
 蒼子が心配そうに横に寄ってくる。手には同じおそろいのコーヒーカップ。こうなった頃、彼女が買ってきたものだ。そういえば、その子供のような恥ずかしい行動が、なお新鮮に映ったのだ。ほほえましい、と思った。
 綾瀬はぼそりと溢した。
「・・・女房が出て行った」
「え?」
 蒼子が聞き返す。コーヒーの香りが部屋に充満する。深夜の空気が落ちる部屋に、コーヒーメーカーの音と外をたまに走る車の音だけがこだまする。そこに声が混じる。
 綾瀬は舌打ちしたい気持ちを抑えもう一度言った。
「女房が、鳴海が出て行ったんだ。今朝起きたら書置きがあった」
「・・・・なんて?」
「なんとも。ただ、嘘つきは好みじゃないの、って」
 知らず声が篭る。
 嘘つきは好みじゃない。
 その言葉を買ってやったばかりの洋服に付いていたプライスカードに見つけたとき、綾瀬の視線は一瞬かすんだ。しかし、見間違いだとは思わなかった。つまりは。その服は綾瀬が鳴海に贈ったものだったが、選んだのは蒼子だった。
  何故分かったのだろう、と疑問だった。蒼子が選んだサマーニット。選んだというよりは、蒼子が勝手に買ってきたのだ。
「奥さんに」
 そう言ってデパートの包みを差し出された時、女の底にある情念じみたものを感じ綾瀬はぞっとした。美しく包装されたプレゼントには服ではない何かがつまっているように感じた。けれど、また深く考えるのを止め、そのまま鳴海に渡したのだった。
 どうせ分からないだろう。
  嘘をつかない男などいるのだろうか。それならば彼女、鳴海は自分に対し、嘘をついたことはないのか。
 綾瀬は考える。けれど、嘘などばれなければ、確認する術はない。綾瀬には思い出す限りそんな確認できた覚えがなかった。
 愕然とした。
 もしや全部が鳴海には分かっていたのか。蒼子とのことも、それに属するあきらめも。
 そんな気がした。
  鳴海はすべてを分かった上で出て行った。そんな気がしてならなかった。
 蒼子がつぶやいた。
「・・・奥さん、ナルミていうんですね」
 その声に反応し、綾瀬は今日始めて見るかのように蒼子を見た。
「・・・知らなかった?」
「ええ」
 蒼子の顔は心なしか青ざめていた。さっきまでの上気した頬は今はない。
「そうだっけ?・・・でもいいよ、そんなこと」
 綾瀬はその蒼白さに気が付かなかった。
  沈黙の後、下を向くと静かにコーヒーを流し込み、立ち上がった。
「まあ、こんな亭主だからね。当然かな」
 自嘲するわけではなく、それが嘘でないことがさらに可笑しい。
 本当に当然だ。
 そして飲み終わったカップをテーブルに置きながら蒼子を振り返った時、その瞳に涙が溜まっているのを見つけた。
「泣いてるの?」
「いいえ。そんなこと・・・・いいえ」
「でも・・・」
「違います!」
 その否定が、思いがけず大きな声になり蒼子の顔は苦痛のように歪む。泣き出す寸前の水の匂いが、蒼子の鼻孔を犯し、それは綾瀬に伝染する。
「・・・泣くなよ」
「でも、奥さんが、鳴海さんが、いなくなったのは私のせいで・・・でも、私」
 もはや止まらないであろう水滴は顎を伝い、鎖骨の窪みに溜まり、化繊の中に落ちていく。強引に引き寄せ、抱きすくめると蒼子はそのまま泣き出した。綾瀬はどうしたものかと思案にくれ、なのにその時は不思議とうっとうしいとは思わなかった。ただ、そんなにも求められていることの方が不思議だった。
 涙が染みていき、またコーヒーの匂いと混じる。部屋にはいろんなものが混じっている。まるで蒼子や鳴海やいろんなものが混じった自分のように。
 彼はため息をつき苦渋の表情を浮かべた。
 そうしているうちにもどんどん体温を増していく彼女の身体。
「綾瀬さん、綾瀬さん・・・・」
 しゃくりあげながら自分を慕い求める彼女に、呼応するように身体が反応して、麻痺したような痺れにも似た感覚が背中を走った。綾瀬は黙って蒼子の悲鳴のような泣き声をふさぎ、穿いたばかりのスリップを捲り上げる。蒼子はまだ泣き止まない。涙を左手で荒くぬぐい、顔ごと瞼を寄せ、それでも尚甘く欲張りでどうしようもない女に立ったまま手をまわした。
 やがて泣き声は違うものへと変わることを予期して。


 しかし、その後、意外と早くその関係の終結はやってきた。何度かの週末と、2回の給料日を過ぎたあたりだった。
「ばかね、綾瀬さん」
 蒼子が呟いた。
 しかし、その口調は声量とは異なり、きっぱりとしていてなんの感情も含まれていなかった。嘲るようでもなく、親愛の情を込めているようでもなく。ただ、事実を述べていた。
 深夜の部屋で日常になりかけている共有されたベットの傍に、蒼子は佇んでいた。綾瀬はまだ柔らかい毛布の中にいて、つぶやかれた言葉の真意を理解できずにタバコの煙を薄ぼんやりと吐き出していた。
「え?」
「・・・おしまいのとき、ってわかりますか?」
「蒼子?」
「わかりますか?」
 煙越しにでも蒼子の表情は真剣で、そういえば自分を見つめていたのはこんな瞳だった、と綾瀬は改めて思う。
 ぎしり、と音を立て、蒼子が隣に座った。
  綾瀬はじっとその顔を眺めた。どうやっても彼女の気持ちは変わらないであろう事が見て取れて、今更ながら女は怖いなあ、と思う。おしまい、を口にする時には、もうすでにそれは完結したことなのだ。
その瞬間に男は過去でしかありえない。本心がどうであれ、決心してしまえばもう変更はない。
 綾瀬は静かに答えた。
「・・・分かるよ、それくらいは」
「そう・・・良かった」
「うん」
「うん」
「ただ・・・」
 ただ。そう言い息を切ってから、綾瀬は用意された灰皿にタバコをもみ消し向き直った。
「どうして分かったの?」
 あえて明言することは避けた。
 ・・・それは嘘なのか。
 その魂胆を知ってか知らずか、蒼子は笑った。
「勘です」
 綾瀬さん、分かりやすいから。
 また、水の匂いがした気がして綾瀬は残った煙を掃う。けれど、綾瀬がいくら目を凝らしても、蒼子の瞳からは体液の粒は溢れないことを確認すると、彼は深くため息をついた。
「こういうときはどう言えばいいんだ?」
 細い指が綾瀬に触れようとして躊躇して、一瞬持ち上がるがまた戻される。
 彼女の感じることが少しだけ綾瀬にも分かる。そうしたい、と思いながら彼自身もそれを止める。
もう、ここに残されているのは残骸のみだ。拾い集めてもきっと崩れてしまい砂のように零れ落ちる。
 蒼子がまた笑った。
「それは自分で考えてくださいね、綾瀬さん」
 そして静かな微笑みは続ける。
「さようなら」


 さようなら。
 部屋を出て、足を踏み出した綾瀬の脳裏に剥がれ落ちない別れの言葉が刻まれる。
 あんなに夢中になって、その後疎ましく思ったものが、嘘のように清算されるその言葉に綾瀬は合意した。 出て行く寸前にまた、あのプールの中に入ったときに似た、水の匂いを嗅いだ気がする。
 確かめる術はもうないのだが。
 鳴海がいなくなってから、綾瀬は最初放って置いた。
 1日、2日、1週間、2週間、1ヶ月。それを過ぎた頃からだ、眠れなくなったのは。鳴海が帰ってきたような気がして夜中に目が覚める。汗に濡れたTシャツを着替え、また一人分には大きすぎるベッドに潜り込む。
 ダブルのベッドなんて買うんじゃなかった。そう舌打ちしたい気分に弄ばれ、うっすらと眠りに落ちる。そしてまた目が覚める。汚れたシャツの山を作るのも面倒くさく、綾瀬は上半身裸で寝る。
 鳴海がいなくなって初めて、この家が整えられていたことを知った。
  部屋も、台所も、風呂も。すべての物が主を失って所帯無げに見えた。
 散らかってはいない。なにしろ会社と家と蒼子の家を往復していたから。
 鳴海が出て行ってからというもの、綾瀬は散らかすほどこの家に居なかった。自分で洗ってアイロンをかけたワイシャツを選び、タイをそれに合わせる。いつも鳴海が選ぶ通りに動いている自分に彼は気がつかない。
 チョイスがまったく同じなのに気がつくのはいつも会社を出て、蒼子の部屋に来たときだ。タイのナットを緩めようとして少し唖然とするのだ。
 もしかしたら、そこから蒼子は何かを感じ取ったのかもしれない、と数日経ってから彼は思った。
 しかし後悔はしていないつもりだった。
  自分と彼女の関係はもうとうに腐りかけていた。そう思い、綾瀬は蒼子の部屋に置き忘れてきたライターの事などを忘れることにする。
 もう当分はいい。
 そんな風に思う自分を勝手だとは思わない。
 壊れたものは修復できないのだから仕方がない。


 その日も綾瀬は会社を終え、呑みに行こうという同僚の誘いを受け、少し酔いの回った頭で帰路についていた。
 しんとした道路を歩き、腹が減ったなあ、などと考えていた。
 鳴海が居なくても、時間は過ぎていく。
 相方。
 片腕。
 そんな風に自分の伴侶を言う人がいるが、なんてことはない。空気のように当然そこにあったものがなくなっても、自分はなんとか生活できている。
 事実、なにも変わらない。会社は毎日存在しているし、腹も減る。別れても蒼子の態度は変わらないし、やらなきゃいけないことはごまんとある。日常は途切れることなく続いている。
 ただ、眠れないことを除いては。
 けれどそれは小さなことだ。そう綾瀬は思っていた。
 ただ少し、家の中が広くなっただけだ。
 空腹がピークに達しそうな気がして、綾瀬は自宅の冷蔵庫の中身を思い出す。ろくなものがないという結論は彼をそのままスーパーの中に吸い込ませる結果となった。
 いやに明るい店内を物色しつつ、その後彼は缶詰の前に立つ。
 オイルサーディンの缶を2つ。きれていた醤油の小瓶を1つ。バターを1箱。それにワインコーナーに寄って安物の白ワインを1本。
 そこまで手にとって、綾瀬はふと思った。
 米が食べたいなあ・・・。
 まっしろのほかほかの飯。そういえば、あのなんともいえぬ匂いが立ち込めるのをしばらく家で嗅いでいない。炊飯器は電源が切られたまま、放置されていた。
 そうだ、そうしよう。
 炊き立ての飯に味噌汁。それも大根とねぎの味噌汁がいい。
 そう、綾瀬は思いつく。
 その自分に対する提案を、我ながらすばらしいと思いながら、広い店内を探し米を見つけ、ついでカゴを取ってそれに缶詰や酒を投げ込んだ。大根なんてものは当然常備していないからそれも入れ、2列となりのねぎも取る。そうしている内になんだか綾瀬の心は高揚していた。
 なんだ、楽しいじゃないか。
 うまい飯が食える。
 そう思ったら、なんだか口笛でも吹きたいような気になった。
 レジを済ませ、品物をビニル袋に詰め込み鼻歌を歌いそうになっている自分に呆れ、それでもいいか、と米を担いだ。
 その時だ。
 柔らかい何かが綾瀬の背を押した。
 いや、撫でた。
 米を肩に乗せたまま、もう一方の手で自分の背に手をまわす。 
 ワインのビンがガチャリと音を立てた。
 そこには何もない。
 ただ緊張が残っていて、綾瀬は静かに振り向いた。
「鳴海」
 そこにいた女が身体に同じに小さな手をひらひらさせて笑う。
「なにやってんの?」
 そう言われ始めて自分の肩に乗っている物と、腕からずり落ちかけているビニールの中身と彼女の顔を見比べた。
 バツの悪さを噛み締めながら、綾瀬は答える。
「・・・腹へったから・・・飯炊こうと思って」
「それでそんな物担いでるの」
 鳴海は可笑しそうに笑った。心底楽しそうに。久しぶりに見た顔はどこか記憶と違う気さえした。
「つくってあげようか?大根の味噌汁」
「え?」
「大根、袋の底破ってるよ」
「え?あ!」
「味噌汁にするんでしょ?それ」
 綾瀬はあわてて底に突き出た大根の尻尾を直しながら頷いた。
「おいしいよ。あたしのお味噌汁」
「・・・知ってる」
 にっと、鳴海の口角が上がった。
「でもさ」
「・・・なんだ?」
「お味噌、もうないよ。あたしが出てく時、捨てちゃったもん」
 腹立ったから、味噌に当たっちゃった。
 そう言ってから彼女はいたずらをみつかった子供のような顔をした。
 買っていこうね。
 そう言い店内に消えていく鳴海の背を、綾瀬は呆然と見つめたのだった。


「あなたって、ばかな人」
 自分の耳元に注ぎ込まれたその言葉にはっとして、綾瀬は鳴海に視線を落とす。
「女って・・・同じこと言うんだな」
 思わず、そう呟いた。
  鳴海は静かに笑っている。同じ言葉なのにどうしてこんなに違う色をしているのか、綾瀬は不思議だった。
 蒼子の言葉は真実を見抜いており、馬鹿であることを肯定も否定もせず、ただ何か憑き物が落ちたかのような眼で目の前にいる綾瀬を見ていた。
 いや、違う。
 綾瀬は思い起こす。そしてもう一度あの瞳を心の中で観察する。
 鮮明に広がる蒼子の影。そして、あの言葉は自分に向けられたようでいて、実は違うところを見ていなかったか、と気づく。
 蒼子の真実のみを見つめた眼。あれは自身に向けられていた。蒼子は、綾瀬を恨むことこそが馬鹿らしい、そしてそんな男を好いた自分の感情は否定できないが、ただそんな盲目のような恋にうつつを抜かした自分にばかだ、と言ったのではないか。甘んじて、きちんと自分の恋に終止符を打ってはいなかったか。
 だとしたら、自分はなんて、どこまでも幼稚な人間なのだろう。
 鳴海が珍しいものを見た、といった様子で綾瀬を覗き込む。
「・・・まさか、泣いてるの?」
 綾瀬は無言で頷いた。
 塩辛い粒が後から後から溢れ出た。
「鳴海」
 僕は。
「馬鹿な女だと思っていたんだ。ずっと。なんて愚かで、貪欲で、いやらしくて・・・・」
「かわいかったんでしょう?」
 からかうような口調の声に同情は含まれていない。
 鳴海は本当に面白がっている。
「同じ事を言うのは、ただ、女だからじゃないわ。あなたの周りにいる女だからよ」
「・・・それ、どういう意味?」
「いたいけなものに惹かれる、ってことかな」
 鳴海の声に優しさが滲む。
 それも故意に。
 自分は今、これ以上ないほどの屈辱を受けている。
 綾瀬はそう思った。
 反射的に手を振りかざそうとして右腕を引いた。
「殴るの?あなたが?あたしを?」
 からかう口調は消え、真摯な顔を向けた鳴海が鋭い言葉を放つ。
「できないわ、決して」
 きっぱりと断言する唇の動きに、綾瀬の右手は動きを止めた。
 そして自分のしようとしたことにも。
 感情で動く動物。
 それは確かに、愚かだと評されても仕方ないものだ。それをたった今、自分で証明した。
 そう思い、再び眉間に皺がよる。
「僕は・・・・」
 蒼子がかわいかった?
 そんなはずはない、と綾瀬は否定しようと思い、鳴海をもう一度見る。けれどその余地もないほど、鳴海の表情は確固たる自信を持っていて。そんな彼女の顔を不覚にも綺麗だ、と思う。
 結論にたどり着く前に、綾瀬の頭を支配するその思いにすら反論できない。
 鳴海を殴ろうとしたのは、あるいは殴れないのは、この女に惚れているからだ。
(惚れているだって?)
 生暖かい体温が綾瀬の背中で再生され、まるで頭の後ろで物事を考えているかのように思考が追いつかない。
「・・・鳴海」
 呻く様に名前を連呼する。
 鳴海がゆっくりと上唇を開く。
「あたしを必要としてるでしょう?」
 言葉を聞き終わらないかどうかのうちにざわざわと神経が波打つのが分かる。痛々しいほど切なさが綾瀬を襲ってくる。無様な嗚咽がこみ上げた。ただ泣きたくなっていた。
 痛烈な平手を食らった気分で、それなのに、妙に暖かい何かが急速に身体の中に広がっていく。
 綾瀬は鳴海の上で、声を殺し、泣いた。
 右手は、鳴海にではなく自分に飛んできたのだ。
 泣きながらそう思った。
 だからその代わりに、今度は両腕で鳴海を抱きしめた。
 くすぐったそうに鳴海が笑う。
 滑らかな胸に、体液の細い川が出来る。溜まり落ち、髪を湿らせ、雨の匂いになる。
 真剣だが、熱心ではない、となぜあんな風に思っていたのだろう。彼女は綾瀬に対し、ちっとも真剣ではない。むしろ、熱心なのだ。そして彼女は彼女自身に対し、真剣である、ということに今更気が付く。自分の欲求と信念に対し。
 彼女は明らかに綾瀬を好いていて、そうじゃなければこんな風に腹の上で男を泣かすことなど、
死んでもやらないだろう。
 たった今の鳴海の目ですらそれを証明しているというのに。
「ご飯たけたみたいよ?」
 炊飯器の電子音が聞こえる。
 からかうような口調に戻った鳴海が綾瀬の反応を見るように尋ねる。
「どうする?」
「・・・ここにいてくれ」
「いやよ。まず、食べなきゃ」
「じゃあ、聞くなよ」
「あんまりいたいけなんだもん。守りたくなるなあ、その態度」
「・・・そうかよ」
 じゃあ、一生僕の傍にいてくれ。
 必要だから。
「ほんとにそうなら言わなきゃだめじゃない?」
 黙り込んだ綾瀬に鳴海は、ん?とその先を促した。
 困った男だ。
 自分で思いながら彼は重い口を開く。
 好きだ、の方がなじみある言葉だ。いくらでも言える。そう言えばいいじゃないか。うまい物が好きだ、と同じレベルだ、変わらない。けれどそれでは真剣でも熱心でもない。
 口を使うことが自然にできたらいいのに、と彼は思う。言葉をつくして、持てるものすべてで語ったとして、それでも綾瀬を可笑しそうに見つめる鳴海の真剣さには足りない。
「愛してるんだ」
 やっとのことで搾り出した使い慣れない言葉は、鳴海の瞳に吸い込まれる。、
 溶けて同化する頃鳴海が答えた。
「知ってる」
 その頃には綾瀬の涙は乾きかけている。
「嘘つきはきらいなんだろ?」
「好みじゃないだけだよ」
「・・・好みだよ、僕は。鳴海」
「でもあなたは自分のことを知らな過ぎるの。そういうのって好み」
「どっちなんだよ」
「自分で考えなよ」
 きっとそうだろう、と思った。
 そうしたい、と思った。
 そう思いながら、
 もう、蒼子の自分に関して熱心な瞳にこんな風に出会うことはないのだとも、
 鳴海の指に髪を梳かれながら、綾瀬は思った。
 まもなく大根と味噌の胃を刺激するいい匂いがしだす。
 そこら中に温かみが漂い出す。
 失ってからではなく、戻ってきてから気が付くなんて。
 これも鳴海の言うところのいたいけなのか、綾瀬にはどうにも理解ができない。