「好きなやつ、いたんだ?」
国崎は確認なんだけど、と続けて尋ねた。面白がっているようではなかった。
卒業のその日。クラスメイト全員で教室での軽いパーティを開いた帰りだった。彼は卒業証書がカバンに入りきらず、それをめんどくさそうに肩に乗せていた。片手で、中身はプレゼントや色紙のみのいつもより軽いカバンをぶら下げている。
段々と傾く陽を背に線路沿いを歩きながら受けた質問に、和葉はほんの少し考えた。
聞いた少年は人のよさそうな顔で、和葉の返答を待っている。
スカートの裾がさよならと手を揺らすように、ぱたぱたとはためいた。
(いいか、言っても)
彼はまだ、和葉にとって、「友達」ではなかった。卒業した今、今日までのクラスメイトで、帰り道が同じ方向だっただけの彼には、もう会うこともないかもしれない。だから、素直に答えた。
「いるよ。今でも」
「・・・ふうん。そーゆう噂聞かなかったから、俺フリーなんだと思ってたよ」
けっこうもててたのに。
国崎は、そう続けた。歩きながら和葉は国崎にも聞こえるように言った。
「別れたの」
その声には悲しみとは別のモノが含まれていた。
例えば、せつなさに似た微笑み。それを他人の前で口にしたのは初めてかもしれない。なにしろ、隠された密やかなモノだったのだから。
「今は親友・・・かな?」
口元が綻んでいるのは何故だろう?と国崎は思う。彼ももまた別れを良しとする言葉を聞いたのは初めてだった。
しかし、それは問わない。かわりに言葉を和葉へと流した。すこし気恥ずかしい気がしたが、まだ自分は若いことが免罪符のように感じる。多感さは、羞恥よりも、目の前の感情にひれ伏すものだ。
「今、幸せなんだね」
和葉はその言葉に驚いて、けれど頷く。
「そういう存在がいることだけでも」
それは本心。沸いてくる幸福感。せつなさ。
両方もてるなんて、
「幸せじゃない?」
どうして別れを切り出しか、といえば。
ユカリにはうまく説明が出来ない。嫌いになったわけではない。嫌いな所、はあったけど。それよりも好きなところが勝っていたように思う。もちろん飽きたわけでもなく、ほかに好きな人ができたわけでもない。それならば最初からいたから。
ただ。
なにも捨てられなかっただけだ。だから最低限を。ボーダーラインぎりぎりを、切ることしかユカリにはできなかった。
そして、和葉にも。
混み合う昼時のファーストフードでユカリに会ったのは、まったくの偶然だった。
和葉は見慣れた顔を最初認識できなかった。それは服装が違うせいだと気づいたとき、その人が自分の塾の講師だということが分かった。自分の知っているきっちりしたスーツ姿ではなく、ラフにジーンズを腰にひっかけボアのついたジャンバーの中に赤いチェックのシャツを着ていた。そんな風に無防備にダブルチーズにかじりつく彼女を見たのは初めてだった。
新鮮だった。
「ユカリセンセ、いつもこんなの食べてるの?」
だから声を掛けた。周りの友人が止めるのも聞かず。そう、止められた。彼女がそれを旺盛な食欲で食しながら、とても不機嫌そうにしていたから。それは傍目にみても、ひどく疲れているようで、全身から「近寄るな」と発しているようだった。
「やめなよ」
「そうだよ、なんか不機嫌そうじゃん、ユカリちゃん」
「ね?それよりここ出たら、歌いに行かない?あたしかわいい男の子がバイトしてるとこみつけたんだ」
口々に空気を読みなよー、と言う女の子や男の子たちに呆れられながら、すたすた歩きだした。
「だーめ、あたしユカリセンセと食べるもん」
「ちぇ、勝手だなあ。和葉は」
そう文句を言うが顔は笑っている。しかたがないなあ、というように友人の一人が手を振った。
和葉の無邪気な、時に無神経な性格を、友人たちは呆れつつ容認していると思う。彼女たちは人が大人と呼ばれる人たちが思う程、外部に対し排他的ではない。ユカリの表情の方がよっほど排他的、と評されるべきだ。そしてそれに無邪気に手を伸ばすのも、子供の特権。
笑いあいため息をつき、友人達は奥まった席に行って見えなくなった。それに手を振り返し、窓際に歩いて行って勝手に隣に座る。しきりに電話を気にしていた彼女は、それに反応しポテトを持ったままこちらを向いた。そしてその疲れた顔のうえに、しまったという表情が浮かぶのを見た。
(お?)
あわてていつもの顔に戻ったが、もう遅い。
しっかりと見た後だ。唇が油でつやつやしていて、人込みに取り残されたようにあどけなく見え、しかも肘は机についたままだった。
この人、かわいい。それがユカリに対し、和葉が個人的に抱いた最初の感情だった。
「センセ?」
「・・・・それやめよう?」
「だって、センセはセンセだもん。あたしのユカリセンセ。今だけ、独占」
いたずらっぽくにっと笑う和葉を、ユカリは苦笑して見つめる。
部屋には小さな明かりしか灯っていなかった。
自分たちが住んでいるところからはだいぶ遠いホテルの一室。せめてもの抵抗か、明るい光には晒せない利用が、ユカリと和葉にはあった。
何がどうなったか。
和葉は今裸のユカリの傍らに居た。強引に誘ったのはユカリではない。でも和葉でもない。そしてどちらとも、今まで同姓を好きになったことはなかった。
「・・・・こんなに簡単だなんて思わなかった」
最初の時、お酒の抜けた頭でユカリはそう呟いた。和葉も同感だった。おもしろ半分だったわけではない。でも、ただ、ユカリに触りたい、と思っただけだった。ホワイトボードに向かう姿以外のモノに惹かれたのはいつからだったか、覚えていない。漠然とお酒って本性出るのかなあ、なんてことを頭の隅のほうで考えながら、ある日、残っていた塾の教室でユカリが言ったのを思い出す。
マジックや資料を片付けていたと思う。教室は学校と違い長机だから間を移動するのが面倒だった、などというどうでもいいことを考えていた。
「・・・あの」
「なあに、ユカリセンセ」
「こないだの・・・」
「ああ、いいよ。誰にもいわない」
「・・・・ありがとう」
ほっとしたように笑う彼女を、自分よりも年上なのに、やはりかわいいと思った。ユカリの言い澱んだ台詞の意図が分からないわけではなかった。しかし、暗黙の了解のように、それは続いた。
あの日、ハンバーガーを食べつくした後、一旦別れじゃあね、と歩き出した彼女にまた明日、と答えたもののやっぱり追いかけたのは和葉だった。
「帰るの?センセ」
息を切らせ追いついたとき、ユカリはくすり、と吹き出す。
「え?いいえ、その・・・予定があったんだけど。でもなくなっちゃったから、ぶらぶらしようかな」
にこりとしたけど、それは本心ではないのを和葉は知っていた。その前に携帯のメールを確認して寂しげにしていたのを見ていたから。だから、その後遊ぼうと誘った。塾の先生は学校の先生より遊びに誘いやすい、というくらいの気持ちと共になんだか放っておけなかったのだ。
随分長いことその気持ちを持っていたような気がする。それを年上のユカリに対して感じる自分が奇妙だったが、それを伝えることもないだろうと思われた。
確かに、その後なんとなく親しくなった彼女とは塾以外でも会うようになった。だからといって、別に最初から彼女とそういう関係になりたいと思ったわけではない。カラオケで騒いで、盛り上がって未成年だということを目を瞑ってくれた彼女と飲んだりもした。そのうち何でも話せる気がしてきて。
なのに。今は。どこで終わらしてよいかわからない心地よさに、疲れたため息が出る。でも、気持ちは満足だった。自分がそういうこともできるんだと知ったときは少なからずショックではあったし、その関係が異常といわれる類のものだと知らないわけではない。
「・・・・後悔してる?」
和葉はうつ伏せに曲線を描くきれいな背中を眺めながら、聞いた。顔を上げず、ユカリは枕に押し付けたまま答えた。
「すこし」
「なんで?」
「・・・恋人がいるから」
そんなの指輪を見れば、いやそれよりも最初からわかってたこと。和葉はそう思ったが、黙っていた。それに、それだけじゃないことも判っていた。でも、それよりもはるかに、柔らかい肌の方が自分には重要なように思えた。
薄明かりに照らされ流れるような、シーツの皺に沿う黒い髪を眺めるときとても幸福だと思う。けれどそれがずっと眺められる類の物ではないと、和葉もユカリも感じている。
ああ、痛いなあ、そう思ったのは望みとは裏腹に錯覚ではない。
「私には、これ以上は無理だわ」
半年も過ぎた頃、和葉に対し、ユカリは言った。
夕暮れに染まる素顔のまま。塾では見せない彼女の素顔を和葉は、その頃にはもうたくさん知っていた。言っている彼女の方が辛そうだ、と和葉は思った。
風はまだ暖かく、辺りには人が居なかったことで彼女の顔を独占できている気がした。唇をかみ締め、泣きはらしたのであろう瞳の縁は赤く腫れていた。
「あなたがもっと私を好きになるから、じゃないわ」
決心したように震える言葉は。
「私が」
真実すぎて笑えなかった。
「あなたを愛しすぎるからよ」
与えられないものを。期待させるほど、愚かでありたくない、と。
悔しいことに、予想していたことを聞き届ける我慢強さくらいは和葉にもある。
「ごめんね」
笑えない気持ちで、和葉は微笑んだ。どうして微笑んだのか自分でもよく分からない。
夕焼けのせいで瞳と頬に紅が差し、反対に暗い影の映るアスファルトとの対比が心に沁みた。
物心ついてから、何十回となく夕焼けを見てきたと思う。けれど、沁みるほどの光は浴びたことがなかった。
ユカリは泣きたいような気持ちでその影をみつめていた。
和葉の影すら。愛しいと思っているのが手に取れるようだ。
無理だ、と知りながら。
これはそんなに簡単な問題じゃない。
心はあんなにも簡単に恋に落ちたのに。
抱きしめてしまいそうに歯痒く、そうしてしまえない事に苛立っていた。
これから、を考えるなら。それがきちんと伝わってくるくらいには、お互いを理解しているのかもしれない。
「・・・・これからは会いたくない?」
ほんの少し間をおいて和葉は尋ねる。ユカリが見透かされたようにはっとした。
「そんなわけないよね」
わざと、意地悪をした。知っている。ユカリがそう思っていないことを。
和葉を失いたくないと、思っていることを。
神様。
どうかこの人を私からなくしてしまわないでください、と。
勝手だと知っていながら、願ってしまう程に。
そのために、関係を清算しようとしている。そのためなら、身体はいらない。そのかわり。心を。ください。例えばそれが、友達としての存在ででも。
ずるいなあ。
そう思う。それに欲張りだ。そして浅はかだ。 でも、かわいい。
いたいけで、小さく、柔らかく、なのに絶対。
不思議だ。こんなに身勝手なのに、それらを失くす事や拒絶することすら考えない自分も。
「あの日」
「え?」
「最初にあった日」
「塾で?」
「ううん、違うの。ハンバーガー食べてた」
「・・・ええ」
「あの時誰を待ってたの?」
答えを和葉は知っている。彼女が恋人を待ちわびて唇をかみ締めていたこと。そして、それはキャンセルのメールという形で成就したことも。同じようにハンバーガーをコーラで流し込みながら、一部始終見ていたのだから。
判っていたのに。それなのに、和葉はユカリに惹かれ、ユカリは和葉の視線に振り返った。
同性。年上。先生。恋人つき。困った人を好きになったものだ。
改めて、そう思うと笑いがこみ上げた。ユカリも、きっとそう思っている。戸惑って苦笑する彼女を見て和葉はそう感じる。
「うそだよ。知ってる、見てたから」
顔を上げ微笑むのは涙を流したくないから。俯くのは顔を見て別れを告げられる程ではないから。
けれど、親友を手に入れたのだと思えばいいのだ。
それは決して、別れよりは辛くない。
「別にあたし、女しか好きになれないわけじゃないし。なんだったら、あんたと寝る?できるよ、普通に」
何が普通だか、判らないけど。一般的という意味で言えば、きっと今でも和葉は男とベッドに入ることができるだろう。でもそれは、和葉にとってのユカリのようではない。特別、ではないのだ。
「君とは寝ないよ」
国崎は言った。まじめな顔で、和葉をまっすぐ見、重大なことを告げる様に。
和葉はそれにしっかりと頷いた。
その拍子にカバンにつけたキーホルダーの鈴が、ちりんとかすかに鳴る。
高校生。それは今日終わった。でも、繋がるものは終わってはいない。
風は冷たいが、とても澄んでいた。鈴の音のように。
そして数十秒たって、先に和葉が吹き出した。
「お互い様だわ」
国崎も笑った。
変なの。
君とは寝ないよ。かつて自分にこう告げた人は何人かいたように思う。でも、和葉はこんな気持ちにはならなかった。
つまり。
まあいいわ。そーゆう清々しさに似た喜び。かつては自分がなんの価値も持たないように感じて、少なからず落ち込んだものである。それが好きな男じゃないとしても。
目に見えるものが心地よいことは、もう知った。侵食されるのが容易だということも。縛ることと同じくらい。
そうされる価値がないのだと感じたとき、和葉の中心にある弱いものがきりきりと痛んだ。それはとても寂しいことに思えた。
しかし、今提示された国崎の言葉は和葉にとって好ましい。寝なくてもいい、関係。
気の置けない、友達がひとり増えた。
友人とはよいものだ。
和葉は柄にもなく自分がすこし大人になった、と感じる。そんなものがなくても維持できる、青臭い友情じみたものがあると思う。そんな自分に苦笑する。その気持ちが、裏打ちされた物の上に立っていることを知っているから。どんな形であれ帰れると思える場所を持っていることが、自分を明らかに強くしていることを。それによってしか、今のところ弱くはない自分を。
それも、やはりはっきりとは目には見えないとしても。
和葉にとって、ユカリを選ぶということは。
きわどい賭けの最中に出した全財産のようなもので。投げ出し、泡と消えたとしても、悔いはないのかもしれない。けれど。ユカリが選んだのは、守ること。それが間違っているとは、和葉には言えなかった。おかしなことに、そう思えなかったから。
自分が彼女を所有できないのは悔しい。
(仕方がないじゃない)
けれどそう思う。
ユカリは恋人に属している。
そして自分のことも。とても、と付く位に。
我侭は承知。そのユカリを選んだ。それはもう事実。
だから、仕方がない。そのうち彼女と恋人とは結婚という形式に至るかもしれない。
それは和葉もそうで、いずれはそれもいいだろうと思う。しかしながら、いいえ、だからこそ?
愛したものを取り消しにできるようには出来ていないのだ、少なくとも自分は。
しばらく黙って歩いていた国崎がふとこんなことを言って和葉をまた微笑ませる。
「まあ、人間は完璧じゃないから、どんなんでも頑張って歩いてる、ってのだけでも進まないよりいいんじゃないの」
振り仰いだ空からは斜めから茜色の陽が射し込み、その言葉が白く形になり消える。同じ夕暮れでも気分は随分違うものだ。あの時より穏やかに幸せかもしれない、と思う。
でも、あんなに沁みる程綺麗な夕焼けを見ることは二度とない。
眩しくて。
和葉は思わず目を細めた。
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