ドアを開けた時、外にはすでに冬が住んでいる。
恭平の背中は凍りつく。
密閉されていたものが外に押し出されようとして、融合し、生ぬるい空気を作る。
しかし、それは一瞬の事で、すぐに凍りそうな冷たい空気は前から、流れてくる。
身震い。そこに手を伸ばそうと思っていたことも、忘れ、躊躇した。
でも、彼を寒いと感じさせたのは、そんな単純な冷気なんかじゃない。
「あなた」
出掛けに頼子が声を掛けた。
玄関で靴を履きかけていた恭平は、後ろを振り返る。
その拍子に、靴箱の上の写真立てが倒れる。
木のぶつかる音。なんとなく空気とは正反対の響き。
昔、二人で行った沖縄の写真だ。もう7年も前の若い、自分達。
海を背景に、万面の笑みを見せる、綻ぶ白い歯と対照的に回された腕は日に焼け、健康的そのものだ。
どうして人はレンズを見つめるとき、故意に笑顔をつくるのか。そしてそれが自然に出来た事がない。
なのに、紙切れの中の彼らは、いや実際には自分達なのだが、とても自然に見えるからおかしい。
新婚のそれは、幸福の象徴だったもの。
それは彼を少しだけ、部屋の中のシンとした空気に引き止める。その空気を裂いた頼子の声にではなく。
しかし、彼は彼女に向かって聞き返す。
質問はもう、分かっているのに。用意された答えも、すでにある。ぎこちなくはないだろうかと、少し思った。
「なに?」
「・・・どこに行くの?」
「ああ、友達がこっちまで出てきてるって言うからさ。ちょっと、飲みに付き合ってくるよ。
帰りは遅くなるから。待ってなくていい」
けれど、嘘はすらりと彼の口をつく。
羽織ったシャツにさえ、その影は、滲まない。嘘がまかり通る関係。一体いつからそうなってしまったのか、恭平には思い出せない。
「そう、いってらっしゃい、気をつけてね」
頼子はそう言う。柔らかく。なんの感情も含まれない声。読み取れない。
彼女もまたいつの間に、そんな風になったのか、やはり彼には思い出せなかった。
しかし、恭平は知っている。自分が居なくなった後、この家には誰かの匂いが満ちるであろうことを。頼子の吐息が自分じゃない誰かに向かって流れる、という事実を。重く、濃い空気に妻が埋まるであろうことを。
でも、もうそれは自分の感情を少しもかき乱さない。
不思議だ、あんなに愛していると思っていたのに。今でも大切だとは思うのに。
時間が二人を変えた?いいや、そうじゃない。
変えたのは、あの女、あずさだ。
少なくとも、恭平を。
しかして、恭平はドアを開け、頼子に軽く手を振り、歩き出す。ドアの閉まる音を聞くか聞かないかのうち、もう、頭はあずさの事しか考えていない。そうするとき、ジーンズはみっともなく、腫れる。そんな年でもないのに、と恭平は苦笑する。
自分自身に。でも、反対に心は浮き足立つ。歩きにくい。頬には冷たく刺すように吹く風が当たる。痛い。
なのに、指先は赤く染まってゆく気がした。
急ぎたい。
はやるのは、心なのか、身体なのか、もはや彼には分からない。
蜂蜜のようだ。
と、あずさは言う。
指を伝う透明な糸と恭平の目を交互に見つめながら。 そこには欲望が宿っている。それは恭平に向かって伸びている。
比喩的な意味で、または実際に彼女の部屋のドアはいつも自分に対して開かれている、と恭平は思う。
彼女が鍵を開け、チェーンを外して、待ちわびたという顔をして見せるとき、恭平のジッパーはもはや張りさけんばかりになる。
ああ、苦しい。
彼女はわざとゆっくりとドアを開けたりはしない。なぜなら、彼女自身も飢えているから。
隙間を越え、恭平のすぐ足元をすくいあげるようにして、視線は注がれる。
「そんなに僕が好き?」
恭平は尋ねる。
「ええ、とても」
あずさが答える。
二人にとっては、それはとても重大な事実だから。だから伝える。言葉で。仕草で。
そして、手招きする。手招きの音さえ聞こえると感じるとき、恭平の耳たぶは熱を帯びる。誘惑の期待に押しやられるように中に倒れこみ、玄関の床にすら冷たさを感じない自分を憂う余裕もない。中には何が満ちているのか、彼には分かっていた。
そこだけは冬の入りこむ余地はない。そうだ、彼女は自分を柔らかく、時には荒く横たえる手を渇望している。
あたしを甘やかす男がすき。あたしをかわいがる男がすき。
あずさはそう言って憚らない。
好きな男の身体や体温や眼差しで、目を覚ます。
だから いつでも湿り気を帯びる。感情は瞳を伝い、流れだす。あずさはそれを伝える術を知っている。
その事が男を身動きさせない程、効力のあるものだということも。
それは、あの瞬間から変わりない。 彼女、あずさと出会ったあの日から。
あずさはいわゆる義理の妹だった。
勘当同然で、頼子の実家には寄り付きもせず、恭平は自分と頼子との婚姻の際にすら新たに増えたその家族を見なかった。
だから、彼女と初めて会ったのは結婚して何年も経った、ある日。
頼子の祖母にあたる人が死んだ。
田舎のその葬式の場で、恭平があずさを見たとき、彼女は目に涙を並々と称えて、ひっそりと隅に立っていた。顔はいつか写真で頼子の実家に招かれた時、家族写真で見たままだったので、少し考えた後、それが義妹であろうことに恭平には気づいた。
頼子は弔問客の接待に追われ、傍に居ない。
ざわめきは室内から外にまで続いていて、近親者や友人たちのすすり泣きや、神妙な面持ちの女たちや、小さな子供を膝に乗せ、棺桶の傍に座りこんだこの家の主など、様々なものがそこにあった。
まさに悲壮感が漂っていた。
その中の一部であるはずなのに同化できていない彼女は、気づかれないことを願っているようにも見えた。
しかし、黒い真珠のネックレスに涙が今にも落ちそうで、その様子が恭平の気を引いた。
痛々しい。
そんな感じがした。
誰か彼女の肩を抱く人はいないのか?彼女はあんなにも悲しそうなのに。
なのに、誰も彼女に気づいていないように見える。
恭平は初めてみる義妹にそっと近づいた。
「・・・・残念ですね」
突然自分に降ってきた声に、あずさははっとして恭平を見上げる。その拍子に溜まった涙が恭平の礼服に跳ねた。 クリーニングされ、綺麗に糊付けされたスーツはその塩水を弾き、まるで黒真珠のように光る。
彼女の首に光るそれのように。
「ええ」
本当に。
そう呟く顔に初めて涙は伝う。化粧を落とし筋が出来る。
「故人には結婚するときもお世話になりました」
恭平は御棺を見ながら、続ける。棺には花がこぼれそうな程詰め込まれていて、それを主人の膝に乗った子供は不思議そうに眺めていた。
あの子にはまだ、あの花の持つ意味は分からないだろうなあ、 君、それは君の大切なおばあちゃんの為の贈り物なんだよ、と恭平は心の中で呟く。
でも彼女はもうそれを抱きしめ、鼻先で匂いを確認することはできない。そしてそれがまだ、あの小さな子には理解できないであろう。彼は、今から生きるのだから。
あずさが幾分親しみを込めて、確認する。
「あなたは・・・?」
「ああ、頼子の・・その、夫の・・」
視線をあずさに戻し自分の名を告げようとしたら、彼女がその名を知っていたので内心ぎくりとする。まあ、義理とはいえ、兄弟になった男の名前だ。知っていて不思議はないのだが。なにぶん、恭平自身はあずさを見たのが初めてだったので、知らない女に名を呼ばれること自体が、何か違和感があるのだった。
「あら、あなたが恭平さん?」
「ええ、そうです。はじめまして」
「はじめまして・・・・なんだか、変な感じ。こんな席でなければよいのだけれど・・」
その時彼女は初めて恭平の前で笑顔を見せる。
変な感じ。
自分と同じ感想を洩らす彼女を、恭平は不躾に成らないように注意しながらも見つめてしまった。セミマットに塗られた口元がほんのすこし綻ぶ。
綺麗な子だなあ・・・。
恭平は、向こうで弁当を配る頼子をちらりと見て思う。
小柄で童顔の頼子はどちらかというと、柔らかいかわいい感じの女だ。
あずさは、というと、綺麗だが、なにかあまり近づき難い雰囲気の女だと思う。それこそ、こんな場でもない限りは、一生交友は持たないであろうタイプ。
そんな気がする。学生時代も、彼の周りにいるにはいたが、たわいない会話だけで済んでいた、女の子たち。彼女達からは同じ年だというのに、クラスのよく笑い怒る女の子たちとは違う、秘密めいた匂いがしていたなあ、などと思う。
秘密、の匂い。そんなものが存在するかどうかはさて置き、憧れというよりも、いっそ嫌悪に近い感情でクラスを傍観している彼女達を見ていた。
一体その秘密の中身は何だったのか、今となっては知る由もない。
けれど、とにかく。
彼女は落胆しているし、自分はすることもなくぼうっとしている。
恭平は彼女の肩に手を置いた。それはほんの同情からの行為だった。
「月並みですが・・・、元気だしてください」
あずさは彼の顔をまじまじと見た。
「ほんとにそう思う?」
「え?ええ・・」
もう涙は乾きかけていた。跡がついていることを除けば。乾いた涙はもう光らないが、瞳だけが名残を映し、ちらついている。
「あたしが悲しいのがどうして分かるの?」
「どうして・・・泣いているから、じゃないかな」
彼は正直にそう答える。
あずさは心底、意外そうな顔をした。
「・・・・あたし泣いてる?」
・・・・彼女は自分が泣いている事に気づいていなかったのだ。
そんな馬鹿なことってあるか。自分が泣いていることが分からないなんて。
「・・・それ、笑うところ?」
「まさか。あたしはいつも真剣よ」
「そうなの?」
恭平は苦笑する。
あんまりにも悲しくて、おかしくなってるのか?でもそういう風には見えない。
しかし、それが恭平の心をぐにゃりと掴んだ。
彼女は自分の頬に触れる。
危うく自分がそうする寸前でよかった、と彼は安堵のため息をつく。
安堵など、役に立たないかもしれない、と思いながら。
彼女は小さく、あっ、と声に出した。
「本当だわ。信じられない、人が死ぬことに泣くなんて」
「誰でもそうだと思うけど・・・」
そう答えると、あずさは恭平を見つめる。
呼吸が不安定に乱れた。
「いい人ね、恭平さん」
しまった、と思った。
その目には、もう悲しみではなく、違うものが映っていた。
あの時から。
使い古された、しかし、的確な言葉をあえて使うなら、自分はあずさの瞳に捕まったのだ。
感情をあまりにも正直に映す、あの瞳に。
そして、恭平は秘密の匂いの他にもそんなものがあるんだとすれば、丁寧に引かれた線の内側に入った。
自分から。
その向こうにあずさがいた。
だから、それは彼の指でなければならない。
たった今は。
そう、今は。
彼女は沈む呼吸を楽しみながら、そう思う。
未来を確認出来るほど、あたしは強くない。彼、恭平に自分は属していない。彼に対して、その立場にあるのは、自分の姉だ。流れ出た熱は、身体の下で冷まされ、それからまた背中やお尻の熱を奪う。奪わせてあげる幸福。その特権は姉のものであったはずだ。
それを思う時、あずさの胸にはほんの少し痛みが走る。
殊勝な人間のようでいて、実は違う、とはまで思わないだろうが、実質あずさはそれほど傲慢でもなかった。
ただ、自分の感情に素直なだけだ。だから、彼に属した人が姉でなければ、彼女はほんの少しの痛みすら、感じなかったかもしれない。姉とは、共有する思い出がある。そうでなければ、ただの知らない人、つまり関係のない人だと、彼女は考える。もしくは思い出を作りたい気にさせる人。その法則が、恭平にもあてはまっただけのことだ。
だから、先の見えない関係。
けれど、それにどんな意味が?1秒先を重要視することに、一体何の価値があるのか。あずさにはそれが分からない。
分からないから、つまらない。だから、別に必要はない。
糾弾というのは、いつも、一番遠くからやってくる。
短絡?
残酷?
しかし、彼女はいつもそう思っていた。刹那。それほど、綺麗なものはない。
あたしにはそれが似合うわ。怠惰に蝕まれて醜くなるわが身など、なんの興味もない。
もちろん、死ぬのは嫌だ。でもそれは、たんに痛いのがきらいなだけだからだ、ということを知っている。
なるほど、彼女は美しい。
そう、今は。
やがて、それは皺皺に朽ちるはずの肢体。
恭平はといと、それが、恐い。
なぜ、自分がこうも彼女に惹かれるのか。そして、滅ぶはずのものを、称えるのか対比された自分の身体は、彼女よりは確実に、数年分もう死に向かっている。もしかして、自分はとんでもないものに深入りしているのかもしれない。
再びチェーンの掛けられた部屋。薄い香水の匂い。テーブルの上のガラスの水差し。感触を覚え始めたベッド。整えられ、また皺を作り自分と彼女を覆う為のシーツ。
その皺は何度でも再生される類のもの。そこに死は宿らない。
視線は絡み付く。
ぎらついている。
彼はそう感じ、また恐くなる。
自分は彼女に咀嚼されている。やがて溶けてなくなるんじゃないか、などと思う。
そう感じる時、恭平の意識は横たわり息をすることを忘れる。それ自体死に似ているような気がする。
自分はもしかしたら、もう死んでいる?
けれど、恭平の腕は軋む。額は汗を落とす。
これは快楽なのか、それとも恐怖なのか。
恭平は息を潜め、考える。あずさにそれを悟られないよう。そんな事を知ったら、彼女は自分の元から居なくなる。そんな気がする。自分に向けられるのはいつも、欲望であって欲しいのだ。
それだけが、彼女にとって確かに見えるものだから。
なんでもいい。
恭平は思う。
恐くても、未来がなくても、何かを裏切っているとしても、寒くても。
それは彼女を失うことに比べたら、きっととても些細だ。
その時また彼は確認する。
ああ、やっぱり自分はこの、たった今美しい生き物に魅入られている。 瞳は牙を向け、汗は血のように流れ落ちる。あずさが肩に噛みつく。
陳腐だ。自分の思考は。そして、多分おかしい。
あの日、泣いていることを気づかなかったあずさと同じように。
目の前の彼女はおろか、自分すら理解出来ていない。こんな単純な、あるいは稚拙なものに囚われる身体。きっと彼女もそうなはずなのに。しかし、恭平は彼女を表現する方法を見出せない。
彼は今、彼女を崇拝してさえいる。畏怖の念とは、こーいうものだと感じている。
喉に刺さった小骨?
そんな風には思えない。・・・・・やはり、ため息。
なのに、彼女の身体はそんな思惑とは別の所で、自由に浮く。しなり、足は力を無くす。そしてその声は、もはや意味を聞き取れない。叫び声?耳を塞ぎたい。聞きたくない。恐い。
なのに、ひどく、離れ難い。
あずさは蜂蜜と言った。
確かに。とろとろと溶けて、それは恭平の身を濡らす。
滴り落ちる。
恭平は思う。
溶けているのは君?
しかし、快楽の最中の彼女はそんなことにはおかまいない。男って損だよな、こんな時まで考え事できるように作られてるらしい。頭の上で、恭平が彼自身に問い掛けた。
それでも、止めないのはなぜだ。
あずさは身体が自分に与える物に、完全に侵食されるのを許しているように見える。
では、僕は今何に支配されている?同じもの?いや、違う。
もっと、強制的なもの。そう、だから例えば、恐怖。訳のわからない、しかし強い恐怖。
堕ちる、いや堕ちている、底はまだ見えない。
一体どこに?
それでも必ず、底辺はあるはずなのだ。
まったくおかしい。
でも、彼はもう昇れない。
かつてそこから彼を救ったものは何だったか?
結婚。
思いついて彼ははっとする。
頼子、彼女がまだ自分を見ていた頃、彼に対して絡み付くものをまだ、持っていた頃。受け止める視線はやはり、どこか美しく。そして、恐怖ではなかったか、こんなにも惹かれる自分に呆れ、ため息をついてはいなかったか。あれは今と形こそ違えど、同種のものではなかったか。
自分はまた同じことをしている。
あずさは美しい。
けれど、それは刹那的。
恭平は愕然とする。
あの日よりもっと確実に、しまった、と思う。 しかし、またもやのかかった気持ちで諦める。
だから線は引いてあったのに。踏み越えたのは恭平自身だ。
棺桶に敷かれた花は蜜を作ることはない。秘密の匂いを辺りにまくこともない。やがてすべての物と一緒に、乾き、朽ちるだろう。
だが自分の手の中の蜂蜜はまだ当分、乾かない。
りっぱな大人と呼ばれる年にもなって、恋といわれるものがあることを思い出す。けして、愛ではない。彼はそれに気づいている。そんなことを考えてしまうくらいには、大人になっていたのか、とも思う。仕方がない、もう救いの手段は使ってしまったのだ。
だから、憂う声も、責める声も、軽蔑の声も、彼の耳を痛めない。
今のところ、それができるのは甘い恐怖という蜂蜜を塗る、あずさの声だけだ。
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